海賊とよばれた男が「お金」よりも大切にしている音楽会

ちょっと前ですけど、今年の本屋大賞は百田尚樹『海賊とよばれた男』になりましたね。出光興産の創業者・出光佐三をモデルにしたノンフィクション・ノベルです。

…で、そっちはまだ読んでなくてですね、今回ご紹介するのは藤野英人さんの『投資家が「お金」より大切にしていること』という新書です。藤野さんは出光興産の人というわけじゃなく、職業はファンドマネージャー。

この2冊がどう繋がるかというと、テレビ朝日系列で放映している『題名のない音楽会』なんです。

なにやら三題噺みたいですが、ちゃんと理由があります。

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『投資家が~』は、投資家として20年のキャリアを持つ藤野さんが持つ、「お金とはなにか」を1冊に凝縮した本。藤野さんは読者にこう問いかける。

あなたには、「お金」より信じられるものがありますか?

あなたには、「お金」より大切なものがありますか?

あるよ、あるある、あるって。と反射的に返すのは簡単。でも実は「日本人は世界一ケチな民族」(=お金を信じている民族)だと第1章で藤田さんは説明する。

個人の資産は半分以上現金で、寄付を行う文化がない。それでいて、お金儲け=悪だと考えていて、お金持ちは悪い事をしていると考える。汗水たらして手に入れたお金しか信用しない。公のことは国がやるべきで、自分のお金で社会貢献をしようと考えない。でも増税はいや。

身も蓋もないなぁ…という感じだけど、確かに…という感触もある。トドメに持ってくるのはイソップ童話「アリとキリギリス」。アリのように真面目に働いて冬(ピンチ)に備えよう、という話だと思われがちだけど、実はそんな生易しい話じゃない。アリに見放されたキリギリスは、餓死してしまうのだ。

しかしこれ、いまの日本人の姿にそっくりではないでしょうか。
(中略)
日本人の、真面目に汗水たらして働くことが尊いという美徳は、反面的に、そういった働き方をしてない人間にた対して、牙を剥きます。
要は、遊んでいた人間は死んでもいい、というわけです。
でも、本当にそうなのでしょうか? (P75)

最近では生活保護に対する風当たりが強い。でも労働こそが価値ならば、お年寄りは?専業主婦は?生まれたての赤ちゃんは?

「人は、ただ生きているだけで価値がある」

勘違いしちゃいけないのは、藤野さんは「働いたら負け」と言ってるのではないんですよ。

「働く」にもいろいろあるし、「消費する」にもいろいろある。そのいろいろの中には「不真面目」なものがある。それはブラック企業だったり、衝動買いだったりする。形は変わるけれども、共通するのはお金に対して「不真面目」であるということ。

本当に暮らしを豊かにしたいと考え、幸せを求め、世界を善い方向にもっていく、そんな「真面目」なお金の使い道がある。「清貧」ではない、「清富」なお金というのがある。

藤野さんは言う。生まれたての赤ちゃんだって、オムツやミルクやベビーカーで、立派に経済を回している。社会貢献は、なにかを作り出すことだけでなく、消費することでも成し遂げられる。

人は、ただ生きているだけで価値がある。

『題名のない音楽会』という「投資」

そしてやっと冒頭の三題噺に戻ってきます。

改めて、『題名のない音楽会』はテレビ朝日系列で放映されているクラシック音楽を中心とした音楽番組。プリキュアを観てそのままにしておくと始まるアレです(日曜朝9時)

この『題名のない音楽会』はもうすぐ開始から50年になる長寿番組で、クラシック音楽をあつかう番組としては世界最長寿としてギネスに載っています。

そしてこの番組は、出光興産の一社提供なんです。開始からずっと。50年近く。

『題名のない音楽会』を一度でも観たことがある人はわかると思うんですけど、今時のテレビであんなに手間がかかっている番組って、そうそう無いんです。オーケストラを中心に、ホールにお客さんを入れて収録しているんです。テーマ決め、曲決め、オーケストラへのオファー、曲の練習、当日のリハーサル…。これを毎週、30分番組でやっているんです。

もちろん、お金もかかります。

この50年、オイルショックだって、湾岸戦争だって、リーマンショックだってあったんです。原油をめぐるアレコレがあったんです。でも出光興産は、『題名のない音楽会』を続けてきたんです。

出光興産のサイトには『題名のない音楽会』についてのページがあります。

「題名のない音楽会」は、1964年に放送開始と歴史があり、日曜の朝に全国へ音楽の魅力や楽しさを伝えている番組です。
番組は40年以上に亘って当社が一社提供を続けていることでもよく知られています。
番組では本格的なクラシック音楽から、多彩なゲストによる演奏、ジャンルを越えたコラボレーション等にもチャレンジしています。また、公開収録で多くの方に気軽に生の音楽を聴く機会を提供しています。
当社は出光音楽賞や本番組を通じて、日本の音楽文化発展に貢献したいと考えています。
題名のない音楽会 – 出光興産

これが「真面目」なお金の使い道なんだ、と思うんです。

日本に石油を輸入するために、イギリス海軍の海上封鎖を突破してイランに入港した、出光興産のタンカー。『海賊とよばれた男』たちは、今も文化を守り続けています。

最近では、アベノミクスだ、デフレ脱却だ、と景気回復に向けて経済を動かそうとしています。

でも、景気が良くなって、お金が儲かって、その先どうするのか。お金を何に使うのか。

「真面目」に考えることって、大事なんじゃないかと思うのです。

『世界が終わるわけではなく』What a wonderful wor(l)d !

飼い猫がだんだん人間並みに大きくなる、事故死した母親が家族を見守る、ドッペルゲンガーに翻弄される、ベビーシッターが子供と二人で海外をさまよう…。

『世界が終わるわけではなく』は12編からなる短編集。ひとつひとつの短編は小粒ながら、読み進めるとドンドン深みにはまる、奇妙な、奇妙な短編集。

それぞれの短編は語り手が異なるのだけど、同じ人物が出てきたり、同じ出来事を共有していたり、それぞれがゆるく繋がっている。

この「ゆるく」というのがポイント。組み合わせるとカチッと物語ができるわけじゃないし、時系列も、あるかもしれないんだけど、よくわかんない。

「よくわかんない」けど「つながってる」。その効果か、お互い紐で結ばれてるけど、ユラユラと水面を漂い、近づいたり遠ざかったりするような、不思議な浮遊感が出てくる。読み進めると水面がにぎやかになり、ますます混沌とする。

でもその混沌が楽しいのが不思議。ブランドとか犬種とか病名とか固有名詞がたくさん出てきたり、言葉遊びが散りばめられてたり、まるで雑貨店に迷いこんだみたいなワクワク感。しかもその雑貨店は読み進めるごとに増築されていくのだ。

読書会に行ってきた

実は今回この本を読んだのは「ネタバレ円卓会議」という名の読書会に参加したため。課題本だったのです。普段あんまり翻訳ものを読んでないのに、いきなり飛びこんでしまいました。

でも、すんごい楽しかったんですよ。

いろんな因子が散りばめられた内容ゆえか、読んだ人がそれぞれいろんな解釈をみせる。ギリシャ神話だったり、12星座だったり、ケイトさんも考えてないと思うよ!?という深読みや妄想も、帽子から鳩が出るように飛び出す飛び出す。

一人だと絶対気づかなかった面白ポイントや、自分から突っ込んで調べてみないとわからない作者の遊び。能動的な「攻めの読書」に触れて、とても興奮しました。

とにもかくにも、同じ本についていろんな人とワイワイするの楽しい。また行きたいな。

『チェンジング・ブルー―気候変動の謎に迫る』

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本書は「1974年の冬、アメリカ北東部はとりわけ寒さが厳しかった」というプロローグで始まる。

その年の科学誌には「寒冷化しつつある地球」「次の氷河期がやってくる?」という見出しが踊った。過去30年にわたって地球上のあちこちで気温が低下してるとか、氷河が前進しているとか、データも並べれていた。これからすごい寒くなるぞ!と言われてた。

でもいまは全然ちがう。全く逆の「地球温暖化」が問題になっている。あれ?寒くなるんじゃないの。

このことについて、著者の大河内さんは言う。地球の気候変動を知るには数十年のデータでは足りないこと。過去に起きた気候変動を知らずして、いまの気候を知ることはできないということ。

じゃぁ「過去」ってどれくらい昔なの?というと、なんと100万年前(!)までさかのぼる。何を調べたらそんな前の天気がわかるんだ!

この本は、気候変動の解明のために生涯をささげた科学者を描き、詳細なデータで事実を伝える、大興奮のノンフィクション。理系の子は手汗でビチョビチョになるよ!

成毛さんの『面白い本』(→ブックレビュー)で紹介されていた1冊。本文は350Pぐらい。そこにグラフや科学式があちこちに散りばめられている。かと思えば、科学者の写真も入っている。

難しい理論の説明ばっかりじゃなくて、それを発見した偉大な科学者たちのリスペクトに溢れてるんですよ。とあるデータに気がついて、それを追求して追求して、大きな発見をする、そのワクワク感が伝わってくる。この人とこの人は研究室が隣だったとか、死の間際に自説の正しさを証明する論文が若手から届くとか、偶然と必然が織りなす科学者たちの生き様のドラマチックなこと!

そしてなんといっても白眉は、何万年も前の気候を調べることによってわかった、数々の驚きの事実。

例えば北欧。バルト海北部、フィンランド一帯は年々数センチずつ地面が盛り上がってきている。火山活動など見られないのになぜ?

答えは「氷床」。10万年前~2万年前、イギリス北部から北欧、ロシア北岸は巨大な「北ヨーロッパ氷床」に覆われていたことがわかっている。その厚さ、3キロメートル。この巨大な氷床が無くなったため、陸地が重さから開放され、ゆっくりゆっくり「元の位置」に戻ろうとしているらしい。

じゃぁその巨大な氷が無くなったのはなんで?やっぱり地球温暖化?二酸化炭素のせい?と結論を急ぐのはまだ早い。2万年前に動物が吐いてる二酸化炭素などたかが知れてるのである。ディーゼル車とかないし。2万年前。

いまの気候で暮らせているのは「奇跡」

この謎を解く1つのカギが、地球の自転と公転の「ブレ」。地球は太陽の周りを回ってるわけだけど、その軌道は完全な円じゃなくて、ちょっぴり楕円形になっている。そして太陽はその楕円の中心に…いるわけではなくて、中心からちょっと離れたところにいる。つまり、1年のうちで「太陽に一番近い日」と「太陽から一番遠い日」が実はある(夏至と冬至でしょ、と思うでしょ?違う日なんですよー)

で、地球も自分で回ってるわけだけど、ご存知のとおり軸がちょっと傾いている。23.4度。でもこの軸、数万年単位でブレが起きている。コマって、止まりそうになると軸が傾いてきて、軸の上下が円になるじゃないですか。鼓みたいな形。あんな風になってるんですって。え!地球止まるの!ってわけじゃなくて、ブレの周期が数万年なんだっているから、なんともスケールの大きな話。

この公転のブレと自転のブレがちょうど重なると、「太陽にすごく近い白夜の日」ができちゃう。暑すぎ。で、この「ちょうどの日」は一回きりじゃなくて何万年に一度ある。さらに調べてみると、気候の変動とこのブレの時期がピッタリ一致しちゃう。

すごい話だなー!と感心するんですけど、これでまだ4章です。全部で13章あります。

二酸化炭素の登場、南極の氷を掘る探検、有能な科学者が集められた「マンハッタン計画」、数十年で気候が激変する可能性……なんどもなんども山場がやってくる。僕らがいま暮らしている「ちょうどいい気候」は、本当に奇跡的に生まれ、保たれていることがわかります。何万年に一度のことですよ。

桜前線が来るとか、梅雨に入るとか、毎年同じように四季がやってくることにただただ、感謝するのみ。

『やまだ眼』ネタは消費されても「言葉」は消えない

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いま日本国民に知られている「体操」と言えば、「ラジオ体操」は別格として、最近では「あたりまえ体操」になりますか。

これにもうひとつ挙げるとするなら、「アルゴリズム体操」じゃないかと思うんですよ。『ピタゴラスイッチ』の。

その「アルゴリズム体操」をしているお笑いコンビ・いつもここからの山田一成と、『ピタゴラスイッチ』監修の佐藤雅彦のコンビによる一冊がこの『やまだ眼』なのです。

内容は毎日新聞夕刊に2年間連載された同タイトルのコーナーの書籍化。山田一成の言葉に、佐藤雅彦の解説がついている。その「言葉」というのが、例えばこういうの。

エレベーターまで送ってくれた親切な人が、ドアが閉まる瞬間、真顔にもどるのを見た。(P.12)

有名なミュージシャンを「好き」と言うのは、無名なインディーズバンドを「好き」と言うより勇気がいる事なんだと思った。(P.154)

木目がプリントだと別に性能に関係なくても何かガッカリする。(P.109)

「よ~お、パン」という一本締めのあの恥ずかしくて気持ち悪いリズムは、その後すぐ拍手をするからまだ恥ずかしさがまぎれて耐えられる。(P.174)

全然怒ってるわけじゃないのに、帰り際ドアが”バーン!”と閉まってしまった。言い訳するのも変だし、そのまま帰るのも心残りだしで、ベストの対応が思いつかなかった。(P.195)

テレビ的に言えば「あるあるネタ」になるのだと思う。クスクス笑いも止まらない。でも、このトーンで何十も言葉が続くと、目のつけどころに共通点が見えてくる。

この言葉たちは、全部自分自身に返ってきているのだ。感じた違和感を出しているだけじゃなくて、「違和感を感じた自分」をさらしているのだ。

消費される「ネタ」、残り続ける「言葉」

「~と思われたらどうしよう」と思うことってよくある。

さらに「『~と思われたらどうしよう』と思われてたらどうしよう」と不安はグルグルと渦を巻く。「~と思われたらどうしよう」の裏には「~と思われたくない」があって、「~と思われたくない」の裏には「小さなプライド」が構えている。

山田一成の言葉はその裏の裏にある「小さなプライド」まであぶりだす。佐藤雅彦が1つ1つの言葉を掘り下げて解説して、じっくり味わうことで、その深さを感じ取ることができる。

これって今のテレビと全く逆のことにやっている。テレビではネタは簡単に消費される。新しいものを出していかないと、すっかり過去の人になる。テレビに出ないと「消えた」と言われてしまう。

でも、消費された「ネタ」も、「過去の人」になった人も、消えてなくなっているわけじゃない。見えなくなったからってこの世から無くなっているわけじゃない。言葉も人も残り続ける。そこに意志があり意図がある。

『やまだ眼』で照らされた言葉たちを読みながら、この世界にはまだまだ知らない言葉たちがあると、思いを馳せてしまうのだった。

『うたがいの神様』千原ジュニアは寂しがり屋

千原ジュニアは「うたがう」人だ。

クラスでプロ野球カードが流行れば「おっさんの写真集めて何がおもろいねん!」、”爽”という漢字を見れば「バツ4つでなにが”爽やか”やねん!」、ゴルフは紳士のスポーツと言われれば「あんなに緑を伐採して、女のキャディーさんに荷物まで持たせて、どこが紳士やねん!」

難癖、屁理屈、言いがかり。そんな風にも取られがちな「うたがい」の数々。

でもそれは、千原ジュニアが目指す「芸人」という大木の、根っこになるものなのだ。

本書は雑誌「パピルス」に連載された「うたがい」のコラムを36個まとめたもの。

「食後は食前」では、”食後”は次の食事の”食前”である、という発想の転換から、”ブレイクした”と言われるけど”ブレイク前”かもしれない、と仕事のスタンスを振り返る。

「珈琲好きは珈琲嫌い」では、珈琲が好きになりすぎて缶コーヒーが飲めなくなった経験から連想を続け、”自分好きは自分嫌い”という気づきに至る。

世の中ほんまに正しいんか?という「うたがいの目」を持つ千原ジュニアは、人が見逃してしまうことに次々と気づく。白と黒とをひっくり返して、そこに笑いを見つけ出す。

そんな千原ジュニアができた要因の一つが、”残念な兄”せいじだと言う。

「寂しがり屋は会話上手」

子供のころ、友達がいなかった千原ジュニアは、兄せいじが唯一の外との接点だった。でも、話が面白くないと「おもろない」と最後まで聞いてくれない。寂しかったから、聞いてほしかったから、話を工夫しだした。それが結局、話術の腕を磨くことになったという。

このエピソードを読んで、思い当たることがある。

むかしNHKの「トップランナー」に千原兄弟が初出演したのをオンタイムで偶然観たことがある。まだ若手で、テレビよりも劇場を中心に活動していた千原兄弟。むしろテレビを遠ざけていて、その理由として千原ジュニアが言ってたことを今でも覚えている。

「僕ら(クイズ番組で)クイズに答えるために芸人になったわけじゃないんで」

さすが吉本のジャックナイフ!って感じの発言で、テレビに出ている芸人を批判してるようにも聞こえる。でもたぶん、この言葉は自分たちにしか向いてなくって、「目の前のお客さんを笑わせる」ことが自分たちのやりたいことなんだ、と言いたかったんだと思う。寂しがり屋の弟が、兄に話を聞いてもらうように。

客入れの収録のほうがやる気になる、月一回はトークライブをする、ネットは見ない。笑い声をこの耳で聞きたい、そのために千原ジュニアは「うたがい」の視線で街を射抜くのだ。

別に毎日が大変なわけでも、面白くないわけでもないとみんな気づいたほうがいいかもしれません。見つけようと思ったら、面白いことはそのへんにゴロゴロ転がってる。それを見つけて、面白がる努力をするだけで、毎日が土曜日になるかもしれない。
P.97「毎日が土曜日」