『ふざける力』がとても良かった

ワクサカソウヘイさんの『ふざける力』がとてもよかったので書き残しておきたい。

コント作家のワクサカさんが書く『ふざける力』というタイトルの本なので、コントの作り方とか方法論とか書いているのかな、と思って手にとった。これがそういうわけではない。そういうわけではないのだけど、もっと根っこの、生き方レベルの『ふざける力』のことが書いてある。

「ふざける力」とは、意味にまみれ、意味に疲れた構図の世界から、瞬間的に人を無意味の世界へと連れて行き、意味による囚われや呪縛を和らげる力のことです。

ここでいう「構図」とは、なにかしらの範囲が定められた世界。家庭や会社、友人などの人間関係、土地のしがらみ、定められた段取り。こうしら構図から逸脱すること、はみだすことを「ふざける」と定義する。

構図に定住することは、その構図がもつ「意味」に浸ることになる。構図の数が少ないと、意味だらけの毎日になる。家と会社の往復とか。同じ人としかしゃべらない毎日とか。意味だらけの日々は疲弊する。そこで登場するのが、意味からはみだし、無意味の風に吹かれるための「ふざける力」である。

つまりこの本で言う「ふざける」は、やんちゃな輩のウェーイみたいなやつではなく、日々のルーチンをちょっと変えるとか、普段やらないタイプの遊びをやってみるとか、眼中になかった選択肢をあえて取るとか、真っ直ぐな道なのにハンドルをギュッと曲げるような行動のことを指す。ふざけることで、構図から一瞬自由になり、閉塞感を解く。

この「あえてボケる」という選択で思い出すのは、槙田雄司(マキタスポーツ)『一億総ツッコミ時代』。

帯の惹句は「どいつもこいつも評論家ヅラ」。ツッコミだらけの世の中で、あえてボケで行こうぜ、という提言だった。『一億総ツッコミ時代』でいう「ボケ」の第一歩は「ベタをやること」。ツッコミ派が斜に構えて手を出さないベタを思いっきり楽しむ。バレンタインやハロウィンなどの年中行事とか。最近だとオリンピック観戦なんかもそうだろう。とにかく楽しんだものがちである。これも閉塞感から自由になる選択ですよね。

『一億総ツッコミ時代』がベタのレールに乗るのなら、『ふざける力』はレールから外れることも厭わない。この「外れようぜ」「はみだそうぜ」という提言だけなら、他にもどこかの成功者あたりが言っている人がいそうな感じがある。『ふざける力』が深いのは、はみだすのは「一瞬」と見切っていること。さっきの引用は、実はこう続く。

それが瞬間的であるのは、人は瞬間的にしか無意味に耐えることができないからです

『ふざける力』は意味のある構図から「瞬間的に」無意味になる。そのあとは必ず意味のある構図に戻ってしまう。無意味の中にずっと漂い続けるのは恐怖感を生んでしまうから。行き着くところは「死」になってしまうから。

意味だけの世界から一瞬だけ離れることで、新しい視点を手に入れて、元の場所に戻る。新しい視点を獲得したことで、新しい「構図」も得られる。無意味になることで意味が生まれる、というパラドックス。そしてそんなことこそ無意味になってしまう。

なんだか抽象的なことばかり書いてるので、もう禅なのかこれはって感じなのだけど、本にはワクサカさんのふざけエピソードも満載(無意味に鳥取に移住、オノ・ヨーコ相手にふざけて激怒される、思いつきでニューヨークでコント公演、激務のバイト中に先輩が石を焼くなど)で、ふざけることが人生に彩りを与えることがジワジワ胸に染みてくる。

無意味を許容する心のありかたのほうが、意味でギチギチになっている心より柔軟だと思うんですよね。無意味は心に空いた若干の余裕。なお私のカバンには若干の余裕がございます、と林家こん平も言っていた。ちょっとおみやげが入るくらいの心のほうがちょうどいい。

臨床心理士が語る『水曜どうでしょう』が面白いわけ

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最近、うちの子が「トローリー!」「オー!」を気に入っている。

『水曜どうでしょう』の「サイコロ4」より、立山黒部アルペンルートに挑む登山家の大泉さんである。元々、子供が生まれる前からうちの夫婦は水曜どうでしょうが大好きでずっと観ていて、『水曜どうでしょうClassic』もたぶん全部録画してDVDに焼いてある。そんで、たまたま、テレビがつまらない時にDVDを流してみたら、子供たちが食いつきまくりである。普段は芸能人を呼び捨ての娘8歳も、大泉洋だけは「大泉さん」である。

『結局、どうして面白いのか ──「水曜どうでしょう」のしくみ』は、その名の通り、『水曜どうでしょう』がどうして面白いのかを考察した一冊。といっても、テレビ関係者が書いたわけではない。著者は臨床心理士なのである。

疲れているとき、何も考えたくないとき、どうも『水曜どうでしょう』を観ると「ホッとする」。それはなぜなのか。藤村&嬉野コンビにそれぞれ合計約6時間もインタビューをして、臨床心理士の視点から考える。

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ハトはなぜ首を振って歩くのか

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すべてのモノには理由がある。

潮の満引きがあるのも、太陽と反対側に虹ができるのも、柿の種とピーナッツの比率が6対4なのも、うちの息子4歳が何度注意してもソファからジャンプするのも、全部なんらかの理由があるのだ。ハトが歩くとき、首を振っているのにも。

藤田祐樹『ハトはなぜ首を振って歩くのか』(岩波科学ライブラリー)を読みました。1冊まるごと首振りがテーマ。鳥の歩行を研究している著者、好きな言葉は「首振りと世界平和」。首振り愛が高まりすぎて、ハトが歩くパラパラ漫画まで入っている。

一見、思うままに首を振っているように見えるハト。しかし観察を重ねると「首を振るのは1歩に1回」「片足で立っているあいだは首を振らない」「首を前に出したあと、足を踏み出して前に進むあいだは首の位置が動かない」といった”決まり事”があるのがわかる。

で、実験した人がいる。1975年。イギリスのフリードマンという人は考えた。景色が動くと首を振るんじゃない?それとも足が動くと勝手に首を振るのかな?

フリードマンは実験装置を作った。箱の中にハトを入れる。箱の底はランニングマシーンのようになっている。ハトの見た目からは景色が動かないけど、歩くことができる。果たして、この状況ではハトは首を振らずに歩いたのだ!

逆に、ハトを固定して周りの景色を動かしてみると、ハトは首を振った。歩いていないのに、である。

この現象を人間に置き換えてみると、「走る電車のなかから外の景色を見ている」状態になる。流れる景色を見るとき人間の目はキョロキョロ動く。しかし、ハトの目はキョロキョロできない。鳥類の眼球は頭部に対して大きく、平たい形をしている。代わりに動くのは首。ハトの首の骨は12~13個もあり、柔軟に動けるようになっている。

ハトの目は進行方向に対して左右についている。前方に進むと、ちょうど流れる景色を見るようになる。キョロキョロしたくなるが眼球の都合できないので、自然と首を振ってしまう、というわけなのだ。おおぉ~。

しかし話はこれだけでは終わらない。
首振りが1歩に1回なのはなぜ?
キョロキョロしたくなるのはなぜ?
だいたい同じ背格好のカモが首を振らないのはなぜ?
雀は両足でピョンピョン進むのはなぜ?
恐竜も首を振って歩いたの?

観察と仮説を重ねていくのだけど、随所で著者の言動が面白くて癖になる。コアホウドリがVの字に首を振ると聞けば、実際に自分で動きを真似てみて、「運動力学にも神経生理学的にも合理的なのではないか」と思うのと同時に「その姿を誰にも見られなくてよかった」と安堵していたりする。

序盤ではヒトと鳥の二足歩行について語っているのだけど、「なぜスキップやケンケンで移動しないのか」という疑問を持ちだした挙句、

仲睦まじくスキップをする恋人たちは、果たして疾走感を感じたいからスキップしているのだろうか。(中略)子供たちは遊びに夢中になると疲れるということを知らない。恋する若者たちもまたしかり。そういう活力にあふれる年頃には、きっと疲労など度外視してスキップもケンケンもできるのかもしれない。

と、若さ=スキップケンケンで語りだしてしまう。ところどころクスクス笑っちゃう。

「ハトはなぜ首を振るのか」を大真面目に優しく教えてくれる本。飛ぶのがメインの鳥が、たまに歩くときに見せるキュートさがたまらないだろうなぁ。

興味がないから質問がない

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なにか質問はありますか?と聞かれると、いつもちょっと考えたふりをしてから「特に」と言ってしまう。なにを聞いていいのかわからなくて、インタビューとか取材でも事前にドキドキしながら考える。

というわけで、コミュニケーション関連の本を最近読んでいる。斉藤孝『質問力』を再読しました。内容、すっかり忘れてた。いかん。ユダヤの格言では本を読んでも身にならない人のことを「書物を積んだロバ」っていうらしいですよ。ロバですって。ローバー美々ですって(大股開きニュースでおなじみ)。

『質問力』には、具体的なテクニックが具体的な例と共に解説されている。例に挙げるメンバーが濃い。谷川俊太郎、黒柳徹子、村上龍、河合隼雄、伊丹十三、ダニエル・キイス、ジェームズ・リプトンなどなど。高度すぎて真似できない……と思うけど、最高レベルはこれくらいすごい、という天井を見せてくれている。

で、ひと通り読んで、一番グッと鷲掴みにされたポイントが、実は本編じゃなくて解説。斎藤兆史が解説していて、質問とは教えを乞う行為ではなく、「他人と自分の考えがどこでどのようにずれているのか確認するための作業」と述べたあと。

したがって、質問を発するためには、まずその前提として自分なりの考えがなくてはいけない。質問ができないということは、相手の考えに対置すべき自分の考えがないことを意味する。学習段階の低い児童によく見られる、「何が分からないのかが分からない」状態にあるということだ。(P.232)

疑問を持つのは相手と自分の考えが違うからだし、共感をするのは相手と自分の考えが似ているからだ。相手と自分の間の差分が、質問を生むのだ。

「自分の考え」はそのまま「自分の興味」に置き換えてもいい。相手に興味があって、考えがあれば、「これって?」とか「ですよね」とか、聞いたり沿ったりできる。興味ゼロの相手では「誰?」から始めないといけない。

わー、そうか。興味が無いのか。自分以外の「外側」にもっと興味や好奇心を向けないと質問は出ないのか。テクニックよりもなによりも本質的な部分だった。相手がいるコミュニケーションの話ではなくて、自分の生き方の話になってくるのだった。

雑談もJazzもアドリブで奇跡が生まれる

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齋藤孝『雑談力が上がる話し方―30秒でうちとける会話のルール』を読みました。

なんでもない時にふと交わす雑談。ビジネスだったり、メールだったりとまた違うコミュニケーション能力。本書では、雑談がしゃべれるようになるテクニック満載!という感じではなく、いかに「雑談力」が大切か、という説明にページが割かれています。

雑談それ自体は「意見を伝える」とか「物事をはっきりさせる」という目的じゃなくて、「空気を和ませる」とか「雰囲気をよくする」とか、場を作る役割がある。雑談という言語を使ったコミュニケーションなのに、言葉を伝えるのが目的じゃない。言われてみればそうだなぁ。

テクニックというか、心がけ的なものも紹介されてます。印象に残ってるのは「聞く側」の態度のこと。

雑談はその特性上「なにか伝える」ものじゃないので、山場もなくても、オチがなくても、意味もなくていい。ちゃんとした中身にしないと!と思うと、雑談が苦手になる。別にスベらない話じゃなくてもいいんですよ、とハードルを下げていい。

でも、それには「聞く側」が「これは”雑談”である」と認識していることが必要。「オチは?」とか「結論は?」という態度でいると、雑談は成立しない。ボールを待ってるのにボールが飛んでこない。そもそもボールを投げてない。飛んでこないボールを待つので、おかしなことになる。

この「雑談を聞く態度」で思い出すのは、『笑っていいとも!増刊号』の「放送終了後のお楽しみ」のコーナーのこと。

『笑っていいとも!』は毎回放送終了後にタモリとレギュラー陣が残って、テーマのない雑談をしていた。たまに増刊号の収録でコーナー化するときもあったけど、雑談が盛り上がって変な方向に行ったりするのが楽しかった。中居くんの私服が変→じゃぁ着てきてよ→みんなも私服着て出ようよ、みたいな、突然コーナーっぽく仕上がったりして。

で、何で読んだか忘れちゃったのだけど、この「放送終了後のお楽しみ」について、タモリが雑談なのがいいと言っていて、「雑談はJazzである」って言ってた……たぶん。細かい言い回しは忘れちゃったけど、雑談をJazzに例えていた。

アドリブと、それに応えるアドリブ。フレーズが折り重なって生まれるドライブ感。雑談もJazzも、あらかじめ決められたやり取りじゃないし、誰かが先導するものじゃない。その場で生まれるアドリブであり、そこには奇跡も生まれる。

最近「雑談力」についての本が多く書店に並んでいるけど、雑談の魅力ってこの「どこに行くかわかならい」感じだよなぁ、と改めて思う。なんか変な話しを振られても否定せずに、一旦ノッてみたら、とんでもないところに連れて行かれるかもしれない。行き先のない小旅行。雑談は楽しい。