「わたし」という名の「牢獄」 高橋源一郎『13日間で「名文」を書けるようになる方法』

著者本人が講義を行っている、明治学院大学国際学部「言語表現法」。13日間にわたる講義書き起こし(ただし1日だけ休講あり)

どうしたら「自分の文章」を書けるようになるのか?生徒たちの熱い気持ちにこたえて、タカハシ先生が画期的な授業をおこなった。「感想文」は5点でかまわない。「自己紹介」は自分を紹介しないほうがずっと面白い。最高の「ラブレター」の書き方とは?「日本国憲法前文」とカフカの『変身』をいっしょに読むと何が見えてくるのか……。生徒たちの実例文も満載。読んでためになる、思わず参加したくなる楽しい文章教室!

「文章教室」のふれこみなんだけど、文章の書き方はいっさい教えないし、生徒が書いた文章もいっさい添削をしない。

国語的に、文学的にいい文章が「名文」とは限らない。ここでは生徒たちに出す課題を踏まえて、文章を巡る様々な考察が語られる。「書く」ことと「読む」こと、文章を読まれるということ、「ことば」が持つ力と使い方…。まさに「書く」ことの教科書であり、「名文」を巡る小説のようにも読める。

「ことば」とは、「わたし」という名の「牢獄」から放たれた一羽の鳩であると著者は言う。「ことば」を足に括りつけ、囚人に届かせることができる鳩であると。書くことは「わたし」と解き放つ。と、同時に、書いたものを読んだ「わたし」はまた「わたし」の中に入る。書くことと読むことは、永遠に繰り返されるのだ。

あと、あとがきで、生徒の文章を添削しない理由が改めて書かれていて、「教えれば教えるほど文書は下手になる」と語られる。「10年以上前に小学5年生に文章を教えてことがあるが、教える必要なんてなくて「名文」のオンパレードだった。しかし、中学に進学した彼らの文章は病人みたいになっていた」というエピソードも語られる。

これで思い出したのが、以前感想文を書いた『きいてね!おてて絵本』(※過去エントリ:お腹がよじれる!子供たちの創作おはなし集 サトシン監修『きいてね!おてて絵本』 | イノミス。子供たちが繰り出す文章は確かに「名文」揃いだった。

「わたし」を解き放ち、自由になること。それが「名文」に近づくひとつの道なんだな、と思う。
 

さようなら、「世界」 高橋源一郎『「悪」と戦う』

とても、粗筋を書くのが難しい。

少年(三歳児!)が「世界」を救うために「悪」と戦う、というようにアウトラインを書き出すと、とてもステレオタイプに見える。でも、そうじゃない。詳しく書こうと思えば書き出せると思うけど、なんだかそれは、僕の手でこの物語を縮小させてしまう気がしてしまう。

とても、感じたことを書くのが難しい。

読後感は決して、マイナス、ではない。でも、深い感動や、涙や、感嘆や、驚愕や、その他大きく感情の針が動きだすわけでなく、なんかぼんやりと反芻している。これはなんなのだろう。心に場面が浮かんでは、降り始めの雪のようにじんわり消えていく。

僕は高橋源一郎の熱心な読者ではなくて、何年も前に『さようなら、ギャングたち』を一度読んだきり。記憶はおぼろげ。だから他の高橋源一郎作品と比べてどう、という言葉は持ち合わせていない。

ただ、一つ、言えるとしたら、子供を持つ親になっているいま、言えるとしたら、この本はずっと僕の本棚に置いてあることになると思う。

繰り返し取り出しては、ランちゃん、キイちゃんに会うことになるだろうと思う。

長い付き合いになる予感だけ、今はしている。

※参考リンク
高橋源一郎 (inomsk) on Twitter:5/1~13まで、毎日午前0時に高橋源一郎本人が『「悪」と戦う』のメイキングを執筆していました。