温泉に一日中いたいから文豪になりたい

先日、中禅寺湖温泉に行ってきたわけですが、やっぱり温泉っていい。

なにを今さらだけど、温泉っていいよねぇ〜。あったまるよね〜。知ってる?あったるよ~。

もう一日中温泉に出たり入ったりして暮らしたい。寝て起きて温泉出たり入ったりして食べてまた寝るの。うっかり浴衣のまま入って慌てて出るくらい。

こりゃ将来の夢は湯治だなぁ〜、なんて、のん気に思ってたんだけど、湯治は湯治でちゃんとお金持ってないといけない。治療だし。病気で痛い思いするのも嫌だ。膝とか。

文豪ならいいかな。

文豪、ちょっと書けばお金になるし。温泉にいいんじゃないかな。モテたくてロックをはじめた、みたいに不純な動機で文豪になったっていい

文豪と言えど今の暮らしぶりなので、ネット環境は欲しい。今どきの文豪はネットで調べ物をしたい。WiFi環境も必須だ。Amazonで買い物したい。

でもネットを通して編集者に原稿を催促されるなぁ。

メールは教えず、Twitterもブロックするしかないか。Facebookも制限だ。温泉まで原稿を取りに来てもらって、テキストが入ったUSBメモリを渡すことにしよう。今どき文豪だけど手書きじゃないですよ。さすがに。

あとは口ひげと着流しで難しい顔する練習しよう。

それにしても文豪になるにはどうしたらいいんだろう。まずは作家にならないとかなぁ。

あれ?今さらだけど、作家の最終形って文豪なのかな。そんなキャリアパスなのかな。作家の「あがり」って文豪?

作家の最終形が文豪かどうかはわからないけど、文豪の最終形が温泉入り浸りなのはたぶん間違っている。

毎日を楽しくしたいなら「ボケ志向」になろう 槙田雄司(マキタスポーツ)「一億総ツッコミ時代」

数々のバラエティ番組のヒットにより、日常にまでお笑いの方程式が持ち込まれるようになった昨今。「ハードル上がっちゃった」「いま噛んだでしょ」「そこはツッコむとこ」などのお笑い用語、毎日どっかで耳にしたり使ったりしちゃう。

この「世の中のバラエティ番組化」と同時に、マスコミ視点で、他者に対して、ツッコミをする人が増えたと感じる著者。この息苦しい「ツッコミ高ボケ低」の気圧配置を吹っ飛ばすために書かれたのが本書、「一億総ツッコミ時代」。

芸人・マキタスポーツが本名の「槙田雄司」で書いています。持ちネタの作詞作曲モノマネでも見せる冷静な観察眼を、文章でもいかんなく発揮。

そうそう、「ツッコミが多い」といっても、単純にお笑いのツッコミが悪の元凶というわけじゃない。この本で語られるのは「ツッコミ志向」「ボケ志向」という2つのキーワード。

「ツッコミ志向」同志のにらみ合い

「ツッコミ志向」とは自分はともかく相手のことを批評・批判する傾向を指す。出来事や人に対して、とやかく何か言わずにおれない。これが増えている。

ツッコミ志向が増えた理由として、さっきのお笑いの日常化と、もう一つ、ソーシャルネットワークの発展がある。ネット上での匿名による批判は2ちゃんねるの頃からあるけれど、TwitterやFacebookの発達でより気軽に発言でき、より広まるようになった。

部屋にいながら、世の中に、気軽に、ツッコミという名のトゲを刺せるようになった。

でも、と、芸人・マキタスポーツは言う。本来ツッコミとは、重い剣なのだと。素人がおいそれと振り回すものではないと。

そしてなにより「つまらない」と。

100人横並びで、1人前に出ると、99人がツッコむ。誰も前に出ないなら、どこかにツッコむところがないか探す。見つけて叩く。炎上する。

そして皆、自分はツッコまれまいと必死になる。

そこにこんな例えを出していて笑ってしまった。

でも現状は「ツッコまれたくない」という意識からか、ディフェンシブルな戦い方をしている芸人が増えています。
(中略)
ツッコミのボールを回してばかりいる。でも、そんなものは不要なのです。実際には、ロンブーの淳さんと狩野英孝がいれば十分回ります。無駄にボールをまわす必要はありません。あとは、国生さゆりや矢口真里がディフェンスしてくれるから大丈夫なんです。

「ボケ志向」が足りない

「ツッコミ志向」が産み出す閉塞感を打ち破るには、「ボケ志向」が必要となる。

といっても、これまたお笑いのボケが大量に必要なわけではない。狩野英孝がたくさんいても困る。

ここで言う「ボケ志向」とは、つっこまれる要素を残しながら、自ら面白いことをすすんでやる側のことを指す。

例えば、なにかに夢中になっている人がいるとする。ツッコミ志向から見ると「なにしとんねん!」で済んでしまうかもしれない。でも、夢中になっている本人はきっと人生が楽しいものに違いない。

意味のないことに夢中になれる、しょうもない自分をさらけ出せる、ベタなイベントをベタに楽しめる、未完成でもなにか創り出して世の中に出せる。

なにか欠けている、隙がある、そんな「ボケ志向」の人こそ、たった一度の人生を楽しめるんじゃないかと提案する。

この本の構成の見事さ!

長々とここまで書いちゃったけど、一番感心したのはこの本の構成の見事さ。

序盤はツッコミ志向について言葉丁寧に解説し、一つ一つおかしいところを指摘していく。しかし、それもあくまで全体の3分の1まで。

そうなのだ、このまま「ツッコミ多すぎ!」を言い続けると、結局「ツッコミ多すぎ!というツッコミ」で終わってしまうのだ。

この本はそんなことにはならない。

ツッコミに対してどう対処するか、ボケ志向とは何か、「面白い生き方」ってなんなのか、自分自身をどう位置づけると楽か、残り3分の2を使って「対ツッコミ」を語ってくれる。

タイトルこそ「一億総ツッコミ時代」と世の中にツッコんだものになってるけど、ちゃんと「ボケ志向」に回った本なのだ。

もう素晴らしくて気づいた時には思わず立ち上がった。ホント。

さいごに

ツッコミが多すぎることを嘆きながら、実は人生を楽しく生きる指南書となっている本書。

部屋の中から世の中にツッコんでも、部屋は広くならないのだ。

サカナクションに「エンドレス」という曲がある。

元はシングル曲だった予定が山口一郎が歌詞に行き詰まり、東日本大震災を経て、8ヶ月かけて完成。アルバム「DocumentaLy」に収録された。

本書を読み終わって浮かんだのはこの曲の歌詞だ。僕の中でいま本と曲がグルグルと回っている。歌詞の一部を引用して終わろうと思う。

後ろから僕はなんて言おう?
後ろから僕はなんて言われよう?
見えない世界に色をつける声は誰だ

AH この指で僕は僕を指す
その度にきっと足がすくむ
見えない世界に色をつける声は僕だ

サカナクション/歌詞:エンドレス/うたまっぷ歌詞無料検索

※関連記事:ソーシャルメディアは大喜利で広まる | イノミス

ソーシャルメディアは大喜利で広まる

自民党の新総裁に安部氏が決まった日、Twitterでカツカレーの話題が飛びまくっていた。

元々は関西ローカルの情報番組「ちちんぷいぷい」が伝えた「安部氏は投票前に3500円のカツカレーを食べてました」という情報。さすがええもん食べてはるわ、という感じの小ネタ情報が、Twitterではカレーに3500円て!というテンションでみるみる広まった。

みるみる広まった、というものの、僕が最初にこの話題を見たのはこんなリツイートだった。

元ネタを知らなかったけど、800円のカレーが3500円て、こりゃなにかあったんだな、と思った。

つまり、このお店が急に変なことを始めたわけじゃなく、「3500円のカレー」というキーワードで世の中で何かあったんだな、と受け止めてた。

その後も「3500円のカレー」をネタにしたリツイートが広まってくる。

林さんは「けしからんね」と言いつつリンクしてるのは自分で食べに行った1万円カレーのレポートだったりする(今は亡き横濱カレーミュージアム…)

27日になって「3500円のカツカレーってなに?」という人たちに説明してくれる人も出てきた。

そしてようやく、

このツイートで「ちちんぷいぷい」が元だった、と知った(元々そういう番組なので悪意がないのも併せて)

大喜利のほうが先に広まってくる

元々が小ネタ情報なのもあるけど、元ネタよりも「3500円のカツカレー」というお題に対する大喜利の答えばかり先に広まってきたのがなんとも面白い。

何かに対してうまいことを言った人がいる→そのうまいことがとても面白い→みんなに教えよう、とリツイートして拡散されたものが、元ネタが広まるスピードを上回ってる。

これはあくまで僕のTwitterのタイムライン上の話ではあるけど、例えば真面目な話題でも何かに怒ってる人のコメントが怒りの対象の情報より先に流れてくることがある。ここでもリアクションが元ネタのスピードを上回ってる。

でもやっぱり怒りの連鎖よりも、面白いことを連鎖させたほうが、なにより楽しい。

マーケティングやブランディングやらで、自分や自社の情報を広めたい人たちがいる。でもこの現象をみるに、大喜利ネタになるある種の隙をもった情報=お題になれる情報のほうがどんどん拡散するんじゃないだろうか。

ソーシャルメディアにうまく乗っかるカギは大喜利にある。

IT社会に求められるスキルがまさか大喜利だったとは。僕が出世できないのは大喜利スキルが足りないのか。あれ、そうなのか。そうなんですか。

「体育館裏でタバコを吸う不良」と、SNSにこぼれ落ちる言葉について

photo:film night | self portrait by Adam Foster | Codefor

体育館裏でタバコを吸う不良が昔から不思議だった。隠れるなら、ちゃんと隠れればいいのに。

いちおう、体育館の裏という目立たない場所ではあるけれど、一度見つかった場所と同じ場所で喫煙を繰り返したり、吸い殻をそのままにしたり、タバコ臭い息で授業に出たり、およそ隠ぺいとはほど遠かった。

僕はいわゆる「中学の時イケてない」部類に入っていた。全校集会で彼らのことが問題になる度、ちゃんと証拠を消せばいいのにな、と思っていた。頭悪いな、とすら思った。

隠したいならちゃんと見つからないように策を練ればいい。そうではなく、反抗心を示したいなら隠れて吸わないで堂々と廊下で吸ったりすればいい。見つからないか、見せるかの二択なのに、と、理詰めで考えて不思議がった。

でも最近になって、彼らの行動が理解できるようになった。

といっても36歳の僕が体育館裏で隠れてタバコを吸いだしたわけではない。Twitterやfacebookなど、ソーシャルネットワーク(SNS)でのことだ。

辛かったり心が弱ってる時、逆に何かに怒っている時、SNSにポロリと言葉を書きたくなる。知っている人が読むかもしれないし。知らない人だってそれを目にする。

実生活で人に言わない弱音や本音なら、心にしまっておけばいい。どうしても言いたいなら、実生活で誰かに言えばいい。でもどちらでもなく、流れる川にポチャンと石を投げるように、ネットに言葉をこぼしてしまう。誰が見るか、何が起きるか、わからない。でも、何かを期待して。

見つからないか、見せるかの二択じゃなかった。見つけてほしい、という選択肢もあったのだ。

体育館裏でタバコを吸う不良も、喫煙が目的なのではなく、「隠れて喫煙して誰かにみつかる」までが一つのプロセスだったのだな、と今になって腑に落ちた。

自分からアクションを起こさず、誰かから差し伸べられる手を待つ。でも何もしないと誰もこないから、ちょっとだけ目立つなにかをする。

頭悪いな、とまで思っていたことが、自分にそのまま返ってきた。

それで、だからこうしよう、という前向きな結論にはならなくて、結局、このブログも流れる川に投げる石のようなものだな、と、ここまで書いて気がついた。なんだかな。

まぁでも、川に投げちゃおう。

どぼーん。

「浦安のテーマパーク」とぼかして表現する理由

上の写真は駅にあった自動車学校の広告。「浦安のテーマパーク」て!と思って撮ってしまった。「ディズニーランドだなんて一言も言ってませんけどー?」とか言われるのかな。

TwitterやFacebookにアップしてみたら、「千葉の住宅展示場の抽選なんかで見かける」という反応が。

あれ?ひょっとして浦安のテーマパークて、ディズニーランド以外に何かあるのかな?と思ったらそうでもない。温泉施設ぐらい。なんでわざわざ「浦安のテーマパーク」って書くんだろ。

これ、どうやらディズニーランドを運営してるオリエンタルランドの方針らしい。

景品としての利用
OLCでは、TDLないしTDSのオフィシャルスポンサー以外の企業が、懸賞(営業・販売促進目的)の景品としてTDRのパスポートを提供することは公式上不可としている。

東京ディズニーリゾートのパスポート – Wikipedia

オフィシャルスポンサーだけが、ディズニーランドのパスポートを堂々と景品として出せるとのこと。景品用に「スポンサーパスポート」なるものもあるとのこと。ディズニーはいろいろ厳しいですなぁ。

というわけで「浦安のテーマパーク」という表記には大人の事情があるみたいなので、生暖かい目で見守っておこうと思う。