1年ぶりに石巻に帰省して

年末年始は1年ぶりに石巻に帰省したんです。

実家の周りには被災した家々があったんですが、取り壊され、片付けられ、更地になり、雑草が生え、枯れていました。1年という歳月で「最初から家などありませんでした」という景色になっていました。実家のベランダから、それをぼんやり眺めていました。

僕には石巻に口の悪い妹がいるんです。

震災前、母が入院したことがあって。その時何かできることはないかと妹に電話したら「あんた金送る以外なにできるの?」と半笑いで言われた事があるんです。なにも言い返せなかったんです。

そして3.11。妹の言葉がずっと頭にこびりついて離れないんです。

お金を送る以外、僕には、なにもできることはないと。金の切れ目が縁の切れ目じゃないですけど、僕にお金がなくなったら、もう僕は用無しなのではないかと。両親に孫の顔を見せに帰省する、それもできることの一つかもしれない。でも…そう思ってるのは僕だけかもしれない。離れて暮らしている以上、いくら寄り添おうとしても、結局余所者に変わりはない。

被災した親族と僕の間にある、見えない深い溝。当事者と、そうでない者。

すべてを捨てて今から石巻に移住したとしても、この溝は埋まらないんだと思うんです。

実家の周りの更地をベランダから眺めながら、もう「帰省して実家でのんびり」なんて、二度とできないんだろうな、と考えていました。

ふかわりょう(ROCKETMAN)の「一人のクリエイティブ」

ふかわりょうを知ったのは「小心者克服講座」から。

ロン毛に白いヘアバンドをして、音楽に乗せて淡々と相手にダメージを与える一言(「おまえんちの姉ちゃん、仮装大賞出てたぞ」とか)を繰り出すシュールな芸風が新しかった。「アルトリコーダーの組み立て方」とか好きだったなぁ。友人宅でビデオ見て大笑いしてた。

それから時を経て、今やすっかりいじられ系ですべりキャラとして、ごくたまにお茶の間に姿を見せるふかわりょう。好感度はどちらかといえば、低い。

そんな彼のもう一つの顔が「ROCKETMAN」名義の音楽活動。

たとえばこれ。

石巻にも来てくれていた。

テレビの中のふかわりょうしか知らないひとはびっくりすると思うけど、全部彼の作詞作曲編曲である。内村光良主演の映画「ピーナッツ」の音楽を手掛けたり、最近ではさまぁ~ず大竹の結婚披露宴でDJをやってたりしてたらしい(あまりに黙々とDJをしているので和田アキ子に小突かれたらしい)

そしてこの度、新譜「恋ロマンティック!!」が出まして。買って聞いております。これがとても良い。気持ちいい。かっこよくてセンチメンタルな曲がたくさん。トリンドル玲奈、m-floのVERVAL、川島あい、初音ミクまで一緒にやっています。

音楽活動、執筆活動(小説出してる)、そしてピンネタ。ふかわりょうは一人にしておくとクリエイティブを発揮する人なんじゃないかと思う。

そんなふかわりょうが最近Twitterをはじめた(@fukawa_rocket)。「自分を名乗るbotのクオリティが低すぎるから」と本人自ら一言ネタを毎日流してくる。

またひとつ、一人でできるクリエイティブを見つけたのかもしれない。

「知らないドラマ」の存在を知るということ

この週末に石巻から両親が来ておりまして、お土産をたくさん持ってきてくれました。その中にあったのが長谷川製菓の「味じまん」というローカルお菓子。

ピーナッツ入りのせんべい…になるのかな。せんべいよりも柔らかくクッキーのような生地。僕の子供の頃からの大好物。

久しぶりだなぁー、と食べてたんですが、ふと気がついた。パッケージの長谷川製菓の文字が、「味じまん製菓」になってる…?

母親に聞いてみた。製造元の長谷川製菓は「味じまん」しか作っていない小さなとこなんですが、東松島の工場が震災で被災。長らく製造できない状態が続いていたとのこと。

それが今度は登米市に拠点を移し、「味じまん製菓」として再出発していたのです。

全然知らなかった。

自分が知らないところで、自分が大好きだったものがピンチになって、そして乗り越えていた。

たぶん、そんなドラマは無数にあって、ほとんどのドラマを知らずに僕は過ごしている。距離も時間も離れれば離れるほど、知らないドラマは多くなるのだろう。

全てを知るのは到底無理な話だけども、「知らないドラマがある」ことを知っておくのはとても大事なことだと思う。そこには確かに、人間がいるのだから。

味じまんを食べながら、知らないドラマに、味の向こうにいる人々に、思いを馳せる。

あと一週間で、震災から一年。
 

※ミヤギテレビの取材
http://www.mmt-tv.co.jp/bandesu/teiban/burabura/101108.html
http://www.mmt-tv.co.jp/kibou2011/archive201202.html
 

実家には僕の小さい頃の写真がない

正確には、あった、だけど。

東日本大震災による津波の被害を受けた石巻の実家は、水没した一階に家族のアルバムが保管されいた。泥とヘドロまみれになった家族のアルバムは、他の瓦礫とともに処分された。写真を再生してくれるボランティアの存在を両親が知っていたかはわからないけど、無力感や脱力感から処分したのかもしれないし、膨大な瓦礫を早く目の前から消したかったのかもしれない。

アルバムに残っていた家族写真たち。フィルムカメラの時代だから、今みたいに思いつきでパシャパシャ撮ったものではなく、ここぞという場面で、カメラを前におすましして、記録として残したものが多かったはずだと思う。

撮られた側の小さな小さな僕は、撮られたことを覚えていない。撮った側の両親は、僕を含んだ光景も含めて見ている。言ってみればその写真は、両親の視点なのだ。ある程度、記憶にも残っているだろう。

もし撮られた側の僕が汚れたアルバムを前にしたら、なんとしても残したい。その視点は、その記憶は、どうしても手に入らないから。

今はデジカメで、撮る枚数はフィルムほど制限はない。僕も親バカの端くれとして、我が子の写真を毎日パシャパシャ撮ってる。クラウドとかにバックアップもしてる。

でも「想定外」の事態だってある。

その時が来ないことを願うばかりだけど、いまはシャッターを切って安心せずに、目の前の光景、声も光も風も匂いも、すべて体で感じておきたいと思う。

記憶を少しでも語り継げるように。
 

ちなみに。

僕の小さい頃の写真、実は僕の家に何枚かあった。数年前、結婚式で流すスライドを自作した時に、両親から何枚か送ってもらって、それをスキャンしてた。被災後、全部印刷して、こちらから逆に実家に送った。

その中には、庭に出したビニールプールで、全裸ではしゃぐ僕の姿もある。

そんなのばかり残ってしまっている。
 

震災から100日。『PRAY FOR JAPAN』を読み返して

 
東日本大震災から100日が経った。

やっと100日、もう100日、まだ100日。時の流れは早くって、でも現実は遅くって。

瓦礫の処理・仮説住宅の建築・雇用の確保・産業の回復など、被災地はまだまだ問題が山積みで、原子力発電所の動向は毎日刻々と変化しているし、政治家たちは内輪もめで信用を落としている。

あれから何か変わっているのだろうか。

100日前を振り返ろうと思って、『PRAY FOR JAPAN』を読み返した。

あの巨大地震と津波のあと、ぼろぼろになった姿を見て、日本中、世界中から様々な言葉が生まれた。この本は地震直後に現地やTwitterから寄せられたメッセージを集めた本だ。

救出されながら「大丈夫、また復興しましょう」と笑顔で話すおじいさん。

「地震を逮捕しに行く!」と家を飛び出した男子。

停電で真っ暗な仙台で「みんな星がきれいだよ。上を向くんだ」と鼓舞する声。

歩いて帰宅する人々にコーヒーやトイレを提供する人。

救出した赤ん坊を愛おしそうに抱く自衛隊、ろうそくを前に祈りを捧げる異国の子供たち、たくさんの花束など、たくさんの写真も掲載されている。

悲劇的なものはなく、困難を前にしてもあたたかい人々を照らしたものばかりだ。
 

あの日、被災地外の僕達は、テレビにネットに釘付けだった。

被災地の状況を少しでも知ろうと思った。やっと届いた映像にショックを受け、親や知人の安否を確かめようと必死になり、デマにも翻弄されながら、自分にできることはないかと胸を痛めていた。

胸を痛めた人たちがつながって、なにか大きな流れが産まれるのを感じた。

そして必ず復興すると信じた。必死で自分に言い聞かせていた。

『PRAY FOR JAPAN』のページをめくりながら、あの時の、モヤモヤした、ザワザワした、そんな気持ちがよみがえってきた。
 

あれから100日。

もう一度、考えようと思う。

自分になにができるかを。

もう一度、思い出そうと思う。

あの時感じた、みんながつながる瞬間を。