誰よりも何よりもすんごい長生きしたい

photo credit: Pulpolux !!! via photopin cc
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ちょっと湿っぽい話なんですけど。

むかし、半年だけ直属の部長だった人が、心筋梗塞で亡くなったと知った。50歳。

最近では、ゲームクリエイターの飯野賢治さんが心不全で亡くなられた。42歳。

生と死について、ぼんやりと考えてしまう。

スティーブ・ジョブズは毎朝鏡の前で「今日が人生最後の日だとしても、今日、する予定のことをしたいと思うか」と自問自答していたそうだ。そのジョブズも56歳の若さでこの世を去る。

今日が人生最後の日だとして…と考えたとき、実際、なにもしたくないと思う。会社でイノベーションを起こすなんて無理だ。愛する家族と家で過ごしたい。じっとしていたい。

保育園に子供を迎えに行きながら、そんなことをぼんやり考えていたら、「死にたくないなぁ」ってポツリと漏れた。

死にたくない。

ツラいとき軽く「死ぬー」ってボヤいたり、大震災のニュースに自分も明日死ぬかもな…と胸を痛めたり、あぁ自分死ぬなぁ、ってことはなんとなく思ってたんだけど、「死にたくない」ってハッキリ思ったのには自分で驚いた。そうか、僕、死にたくない。

もう、すんごい長生きしたい。

親よりも妻よりも子供よりも友人よりも、誰よりも長生きしたい。変な話だけど、みんな看取りたい。ギュッてしたい。愛すべきものすべてより長生きしたい。

でも、生きてると愛すべきものが次から次へと出てくる。

死んでる場合じゃない。忙しくなるぞ。と、ひとり張り切って、ランニングシューズの紐を結んだりしている。

「目に見えないモノにお金を使わない」の話

120円の飲み物は買えるのに、85円のiPhoneアプリを買うのはためらう。

今はためらうけど、そのうちミネラルウォーターみたいに「以前はお金を払うものじゃなかったけど今は当たり前に買うもの」みたいな存在になるんじゃないかな、と以前書いたことがある。慣れるんじゃないかなと。

で、ちょっとさらに思ったこと。

アプリに限らず、情報やコンテンツって、以前からなんかお金を払うのにハードルがある。共通点は「目に見えないモノ」だ。

ニュースサイトを開いて、ここから先は有料です、ってあると知りたい情報でも閉じちゃったりする。

弁護士やカウンセラーの相談料って高いなぁと思ったり、本が電子書籍になってもそこそこ値段するなぁと思ったりする。ひどい例だと違法コピーや無断転載する人まで出てくる。

これって、モノに費やされた時間を想像できなくなっちゃってるんじゃないかな。

昔は、職人が手間暇かけて作ったモノには高値がついた。完成までにかかった時間、職人がその技術をものにするまでの時間が、価格に反映され、買う側もそれに納得した。

しかし、大量生産・大量消費の時代がきて、モノに費やされる時間と価格は比例しなくなった。企画・デザイン・プロトタイプまでは手間暇がかかるものの、大量生産による効率化により価格が安くなった。

「いいモノ」が安く手にはいる世の中になった。

「目に見えないモノ」、情報やコンテンツは、先に挙げた例で言えば職人が作るモノにあたり、手間暇かかるモノになる。大量消費されるものでもないから、大量生産の効率化まで行かず、価格は高い。

安いのに慣れた身には「いいモノ」だけど高いの?となる。

モノに費やされる時間を想像できなくなった時、モノと価格の相関がわからなくなってしまう。

モノに費やされる時間が想像できれば、安く叩いたり、無断で転載したりなんてできなくなるはずだ。

想像力を失わずにいたい。

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学習机を見に行って、節電を思い出した

先日ですね、家具屋さんに学習机を見に行ったんですよ。

娘五歳が来年小学校にあがるので、ランドセルとか学習机とかいろいろ物入りなのです。で、いまどきの学習机ってどんなもんかと。

大人になって改めて学習机を見ると、なんだか小さく見える。棚が独立して本棚になったり、前板の色が選べたり、引き出しが軽かったり、いろいろ進化してて、ヘェ〜なんて見てた。

照明もみんなLED電灯になってた。

このタイプは自動で電気がつくんです、と店員さんが説明する。センサーを内蔵してて、机から離れると消えます。消し忘れがなくなり節電です、と。

いやいや、そこはこまめに消す癖をつけようよ、センサーで電気つかうから節電でもないでしょうよ、と心の中でツッコミながら、ふと思った。

あ、節電。

なんか脱原発のかげに隠れたのか、節電の話を最近全然聞かなくなった。

脱原発といっても、すぐに廃炉にできるわけではないと聞いた。いろいろ手順を踏んで、原発の機能を停止していかないといけない。2030年を目処にとか、先を長く見据えないとできないことらしい。

その間は原子力発電所では発電されることはない。かといって、すぐに代わりのエネルギーが見つかって実用化されるわけではない。

ということは、しばらくエネルギー不足・電力不足が続くはず。

いまは火力発電所が頑張ってるけど、電力使用量は90%を越えるギリギリの状態。

まだ節電しなきゃいけないんじゃないか。

節電、あんなに呼びかけてたのに。「ヤシマ作戦」とか言ってたのに。僕はエヴァンゲリオンを見てないので「ヤシマ作戦」と言われてもなんだかわからず、八嶋智人が粛々とコンセントを抜いてるイメージしか浮かばなかったのに。

電気がなくても人の役に立ちたいなとグルグル考えてたけど(*過去記事:「電気がなければただの猿」にならないために)、最近また当たり前のように電気の恩恵にあずかっていた。「足りない」という意識がなくなっていた。

街の灯りが少しずつ戻ってきて、クリスマスイルミネーションも輝き出して、なんだか「電力が復興してきた」ように勘違いしていた。

全然そんなことないのにね。

「脱原発」より「減電力」は自分でできる。電気料金だって値上がりしてる。

でも節電しなきゃと言いながら、電気がないと見られないブログにこれを書いている。

悶々とする冬である。

「大勢に向けてしゃべる」より「1人に向けて語る」ほうが、言葉が心に響いてくる

ピーター・バラカンがInterFMの役員に就任したとのことで、インタビュー記事がありました。

ピーター・バラカンのラジオとの出会い、ラジオへの想いが綴られています。その中で、ハッとしたのがこのくだり。

テレビにないラジオの一番の魅力は、送り手側と受け手側が直接結びつくことだと思う。僕もリスナーの時にはDJが自分に語りかけてくれているような気持ちになっていたしね。
ピーター・バラカン「ラジオに魔法を取り戻す」

僕は大学のとき放送サークルにいて、アナウンス練習やトーク番組でしゃべってたりしてたんです。ラジオ好きが集まってたのもあって、時々部室でラジオ談義になったりもして、その時に誰かが言ってたのがこんな意味の言葉。

「マイクの前では、大勢に向けてしゃべってる、と思うより、1人に向けて語りかけている、と思ったほうが、言葉が心に響く」

大勢に向けてしゃべっている、と意識すると、どうしても万人受けの言葉になって、聞いてる側の心に引っかからない。「校長先生のお話」を想像してみるといいと思う。

それよりも、たった1人の相手に語りかけている、と意識すると、聞いている側に直接言葉になってくる。

どういう言葉が届くのか、という具体的なところはわからないけれど、気持ちがあるだけで言葉って変わってくる。間や息遣い、声色まで、語りかける全体の雰囲気が変化する。

classic_radio

しゃべりだけでなく、こうやって文章を書くときも同じかもなぁ、と最近思う。

みなさん聞いてくださいよー!というテンションで話す場面ももちろんある。でも、あのね、と、寄り添うように語りかけている文章は、読んでいてなんとなく伝わる。

ブログでもTwitterでも、文字数関係なく、この「なんとなく」がある。文章術とか理論を飛び越えて、胸に入ってくる。説明できない、無意識の底へ。

だから何かを伝えたい時は、声は大きくなくていい。上から構えなくていい。呼び鈴を押してドアから顔を覗かせる程度で、テーブルの上でコーヒーを挟んでるつもりで、そっと話したり書いたりしてみよう。

という話をしてみたんですけど、伝わるかなぁ。なんとなく、なんとなくでいいから。

「伝える」「通じる」ということについてはこの本がオススメ。小手先のテクニックではなく、人のつながるための教科書なんです。(僕のレビュー

「追い風参考」があるなら「向かい風参考」があってもいい

陸上で、競技中に風速2.0m以上の追い風が吹いてると、記録は「追い風参考」という扱いになる。

追い風にあおられて走るのが速くなっちゃったとかで、「この記録は本来のこの人の力じゃありませんよ」と正式な記録には残らない。

でも、強い向かい風が吹いていても、記録は正式なものとして残る。「向かい風参考」というのはない。

向かい風のときだって、その人本来の力は出てない。でも、結果は「その人の力」として残る。

なんか不公平な気がするけど、普段の生活に当てはめると、同じような考え方をしている時がある。

向かい風が吹いていても自分のせいにしてしまう

仕事などでいい結果が出ても、たまたま運がよかった、とか、巡り合わせがよかったとか、実力の外の力を信じてしまう。自分で「追い風参考」を作ってしまう。

逆に、悪い結果になると、本当は運が悪かったとしても、自分の実力不足と感じてしまう。ここでも「向かい風参考」がないのだ。

これをこじらすと、どんな結果になっても自分を責めることになる。向かい風のせいで歩みが遅くなっても、自分の足を責めてしまうことになる。

自分については「向かい風参考」があっていい

いい結果の時は自分のおかげ、悪い結果の時は運が悪かった、と、そこまで極端にうぬぼれる気はない。

でも、せめて向かい風があったことは自覚してもいいんじゃないかと思う。今回は「向かい風参考」だったから次は大丈夫だろう、と、心を身軽にできたらいい。

なんでも自分のせいにしないで、ちょっと落ち着いて、風を感じられるようになれたら、と思うのだ。