その「常識」の作者は誰か? 三崎亜記『ミサキア記のタダシガ記』

『となり町戦争』『廃墟建築士』『玉磨き』の三崎亜記さんのエッセイ集です。

「ダ・ヴィンチ」「本の旅人」に連載していた4年分のエッセイ&本人のTwitter抜粋(ツブヤ記)&書下ろしレポ(ケンブツ記)を収録。

「住んでる自治体がとなりの町と戦争を始める」「廃墟を建てることを専門とする建築家」「全国にバスジャックブームが起きる」など、三崎亜記作品は日常からちょっとずれた非日常、「半日常」とでも言うような設定が多い。それが面白いんですよね。

エッセイもその「日常」や「常識」を疑うものが多く、やっぱりああいうの書く人だなぁ、という印象です。

特に三崎さんは「若者の○○離れ」や「グローバル」「流行色」など、「決まってることに見せかけて、誰かが決めていること」に敏感。「みんな言ってる」の「みんな」って誰?先進国の「先に進む」って何が?と、ボンヤリしてると見過ごしがちなところに光をあてる。

ところで、このエッセイは2009年5月から2013年3月まで収録されている。つまり2011年3月、東日本大震災を途中に経ている。

ここで三崎さんの「決まってることに見せかけて、誰かが決めていること」に敏感なアンテナが反応する。隠蔽や風評、マスコミ不信など、現実に次々起こる出来事に黙っていられなくなる。

それはまるで、三崎作品の中に作者本人が閉じ込められてしまったかのように。

ちょっと硬い感じの感想になっちゃったけど、ゆるい提案や屁理屈(?)も織り込まれてます。特にTwitterは視点もオチも打率良く決まってます。もっと更新してほしいなぁ(2013年は3回しか更新していない

エッセイの挿絵がデイリーポータル Zでお馴染みのべつやくれいさんなのも楽しい。たまに内容と全然関係ない一コマ漫画になってる。べつやくファンも必見です。

そうそう、三崎亜記さんは今回の東京オリンピックの盛り上がり、どう見てるんだろうなぁ。日本中が盛り上がってるように報じるマスコミとか、きっと思うところあるんだろうなぁ。

無意味が意味を持つ、「業界」の寓話。三崎亜記『玉磨き』

200年以上「玉」を磨き続ける、通勤用観覧車を運営する、引きこもり達が部品作りを分業する、海に沈んだ町の商店街組合を切り盛りする…。

三崎亜記『玉磨き』は、虚構の「業界」にルポライターが取材する、6篇からなる短編集。

『となり町戦争』では「戦争をする自治体」、『廃墟建築士』(→過去のレビュー)では「廃墟を建てる建築士」、など、架空の「業界」で物語を描いてきた。

『玉磨き』では、ルポルタージュの形を取って、その「業界」の人達を取材する。なぜ始めたのか?なぜ続けるのか?これからどうするのか?

架空の「業界」がもたらす物語でなく、「業界」そのものを掘り下げていくのが、『廃墟建築士』などと異なるところであり、見所になる。

登場する「業界」たちは、効率化や大量生産といった、現代の産業の常識から反対のところにいる。

表題作「玉磨き」で先祖代々伝わる玉を磨き続ける職人のストイックさも、「只見通観株式会社」で通勤用観覧車を作った信念も、「新坂町商店街組合」で海に沈んだ町を想う人々も、非効率で意味が無いことのようにみえる。

でも、その「業界」の人達が、自分たちのしていることを真摯に伝える姿を読んでいると、段々常識が揺らいでくる。

効率化を図り、価値を創り、儲けを出す。それが産業の常識と思ってるから、意味があると思っているから、「業界」を無意味なものと判断していたことに気づく。

どんな想いを込めているか、背景になにがあるか。現代の産業では無意味になっていたことが、この「業界」たちでは意味を持つ。

失われつつある、忘れられているもの。「業界」たちの持つ意味と、同じ意味を持っている実在の業界が、この世界のどこかで、今日も細く続いているはず。『玉磨き』は、心の底に引っかかっていた違和感をノックする、現代の寓話だと思うのだ。

非日常の陽だまり 三崎亜記『鼓笛隊の襲来』

戦後最大規模の鼓笛隊が襲い来る夜を、義母とすごすことになった園子の一家。避難もせず、防音スタジオも持たないが、果たして無事にのりきることができるのか―(「鼓笛隊の襲来」)。眩いほどに不安定で鮮やかな世界をみせつける、三崎マジック全9編。『となり町戦争』の著者、1年4ヶ月ぶり待望の新刊。

日常の中の非日常を描く小説というのは多けれど、この作品の特徴はその「非日常」が作中で既に受け入れられている状態から始まっていることにある。

なんて書いてみたけど、もう、各編、最初の出だしの設定がおかしくてしょうがないのだ。台風と鼓笛隊がすりかわっている表題作をはじめ、覆面を被って会社に来ることが合法化された「覆面社員」、校庭の真ん中に一軒家が建っている「校庭」、背中にボタンがある女性との恋愛「突起型選択装置[ボタン]」、本物の象がすべり台として公園に勾留される(しかも象がしゃべる!)「象さんすべり台のある公園」などなど、もうコントすれすれ。体にボタンがついているオッサンだったら、バカリズムのコントにあるしなぁ。

しかし『廃墟建築士』の感想にも書いたけど、コントでは決して終わらない。「覆面社員」では覆面の自分と本当の自分との葛藤を、「象さんすべり台のある公園」では郷愁と象の悲しみを、「鼓笛隊の襲来」では伝統と家族の絆を、その世界に浸った状態でじんわりと描き出す。

(こちらからすれば)不条理な世界で、その世界になじんだ人々のさらにその先の心のゆらぎを想像する。先へ先へと拡がる空想に、目を離さずにはいられない。

三崎亜記『廃墟建築士』

七階を撤去する。廃墟を新築する。図書館に野性がある。蔵に意識がある。ちょっと不思議な建物をめぐる奇妙な事件たち。現実と非現実が同居する4編収録の最新作。

出だしがコントのような不条理な設定だったりするのです。たとえば「七階闘争」。町で起こる事件がマンションの7階で発生することが多いため、市議会で「7階を撤去する」ことに決定されてしまう。7階に住んでる主人公は当然困惑する。7階を撤去しても、8階がそのまま7階になるんじゃないの?会社の同僚(女子)に誘われて反対運動に参加すると、7階の歴史をこんこんと説明され(古来、最初の7階は地上にあったのです!とか)、完成間近のマンションに忍び込んで階数表示をすべて7階にするテロ行為を行ったりする。

もうこう書くと爆笑短編集みたいな感じになるのだけど、いやいやどうして、終わりのほうはすごいしんみりするのだ。真顔で冗談を言っている人に最初は笑いながら、だんだん話しに引き込まれていって、やがてその不条理世界に感情移入してしまう。”その世界”のルールで語られる悲しみや決意がすんなり入ってくるようになる。うまいなぁ。

廃墟が国の文化遺産となる世界で廃墟を新築することに魂を注ぐ「廃墟建築士」、夜になると目覚める”図書館の野性”(本が飛び回る!)を調教する「図書館」、人類よりも先に建てられたという”意思を持つ蔵”を守る「蔵守」、どれも建物という共通点があるけど、もうひとつ”プロの仕事とは”というテーマがある。失われつつある技術だったり、理解されにくい職業だったりする中で、どう誇りをもって仕事にあたるか、という異世界の仕事人の話でもあるのだ。

不条理な世界を笑いつつ、その世界にはまる。この奇想と着地のバランスはいいなぁ。すごく楽しめました。これより前にでた短編集『バスジャック』も読んだほうがいいみたいなので、おいおい読んでみたいと思います。

三崎亜記『となり町戦争』

第17回小説すばる新人賞受賞作。『本格ミステリ・ベスト10 2006』で石持浅海が1位に挙げていた作品。なぜー。

ある日届いた「となり町との戦争のお知らせ」。しかし日常は全然変わらない。となり町を通って普通に通勤する毎日。やがて偵察の辞令を受けた”僕”は、見えない戦争を確かめるため役場へ向かう。

戦争が「公共事業」として役所で淡々と処理される、というアイデアがシュールで、見えない所で戦争が進んでいる(広報の「人口のお知らせ」で戦死者の数だけ増えていったり)というのも背筋を寒くする要素を備えている。なんだけど…読み進むと恋愛が絡んだり戦争の様子がちょっとだけ見え始めてきて、この着想の良さが薄くなってくような気がしてしまう。うーん。

輪郭だけでこの物語が終わらせると良くできたショートショートになるんだけど、「戦争」というテーマについて深く掘り下げようとすると着想と合わなくなる。アンバランスな形なのかなぁ。アイデアや描写には力がある人だと思うので今後に注目したい。