興味がないから質問がない

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なにか質問はありますか?と聞かれると、いつもちょっと考えたふりをしてから「特に」と言ってしまう。なにを聞いていいのかわからなくて、インタビューとか取材でも事前にドキドキしながら考える。

というわけで、コミュニケーション関連の本を最近読んでいる。斉藤孝『質問力』を再読しました。内容、すっかり忘れてた。いかん。ユダヤの格言では本を読んでも身にならない人のことを「書物を積んだロバ」っていうらしいですよ。ロバですって。ローバー美々ですって(大股開きニュースでおなじみ)。

『質問力』には、具体的なテクニックが具体的な例と共に解説されている。例に挙げるメンバーが濃い。谷川俊太郎、黒柳徹子、村上龍、河合隼雄、伊丹十三、ダニエル・キイス、ジェームズ・リプトンなどなど。高度すぎて真似できない……と思うけど、最高レベルはこれくらいすごい、という天井を見せてくれている。

で、ひと通り読んで、一番グッと鷲掴みにされたポイントが、実は本編じゃなくて解説。斎藤兆史が解説していて、質問とは教えを乞う行為ではなく、「他人と自分の考えがどこでどのようにずれているのか確認するための作業」と述べたあと。

したがって、質問を発するためには、まずその前提として自分なりの考えがなくてはいけない。質問ができないということは、相手の考えに対置すべき自分の考えがないことを意味する。学習段階の低い児童によく見られる、「何が分からないのかが分からない」状態にあるということだ。(P.232)

疑問を持つのは相手と自分の考えが違うからだし、共感をするのは相手と自分の考えが似ているからだ。相手と自分の間の差分が、質問を生むのだ。

「自分の考え」はそのまま「自分の興味」に置き換えてもいい。相手に興味があって、考えがあれば、「これって?」とか「ですよね」とか、聞いたり沿ったりできる。興味ゼロの相手では「誰?」から始めないといけない。

わー、そうか。興味が無いのか。自分以外の「外側」にもっと興味や好奇心を向けないと質問は出ないのか。テクニックよりもなによりも本質的な部分だった。相手がいるコミュニケーションの話ではなくて、自分の生き方の話になってくるのだった。

信じてるわけじゃない。疑ってないだけ。

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車を運転していると、「こちらの動きを読んだ上で行動している車」に出会うことがある。

例えば、交差点で右折しようとする。減速し、右へハンドルを切って、ゆっくりとアクセルを踏む。すると前方から直進してくる車がいて、こちらが右に曲がりきると同時に後ろをかすめて走り去っていく。ほぼスピードをゆるめずに。

もしも右折の最中に犬が飛び出してきて、僕がキャンッ!とブレーキを踏んで止まったとしたら、直進してくる車は確実にガーン!とぶつかっている。

信じないでほしい、と思う。僕が無事に曲がりきると信じないでほしい。なにが起こるかわからないんだから、そんなところで僕を信頼しないでほしい。しゃっくりが出てハンドル操作を誤るかもしれない。僕にしか見えない少女に驚いてブレーキを踏むかもしれない。そこに女の子が!親方!空から女の子が!

と、考えていて、ふと思った。別に相手は僕を信じているわけではない。

見ず知らずの相手に全幅の信頼をおいて、「大丈夫、あいつはやってくれる。やってくれるさ」と思って直進してくるわけではない。だって知らないもの。誰やねんって話で。

結局、信じる信じないではなく、疑うことを放棄しているんだと思う。起きうる可能性を検討していないのだと思う。想像を諦めているのだと思う。平たく言うと、考えてない。ノープラン。

この「信じられてると思っている」と「考えないで任せている」の不幸な出会いは、ひょっとしたら仕事上でも起きうるかもしれない。

「あいつにでもやらせておけばいいんじゃね」という適当さを見抜けずに、「信じて任された仕事なんだからちゃんとやらなくちゃ……」と気に病んでいる人もいるかもしれない。

「大丈夫大丈夫、完成するから」という丸投げに、「2500億円かかる……どうしよう……」と真っ青な人もいるかもしれない。

ちなみにうちの息子4歳は、「いっしょにレゴでロボットつくろう!」と誘ってきておきながら、パパが作り始めるとどっかに行ってしまいます。信じて任せているのか、適当なのか。まぁ作るんですけど。ロボット。

↓気になってる本。あの競技場、なんであんなことになってんだろ。

雑談もJazzもアドリブで奇跡が生まれる

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齋藤孝『雑談力が上がる話し方―30秒でうちとける会話のルール』を読みました。

なんでもない時にふと交わす雑談。ビジネスだったり、メールだったりとまた違うコミュニケーション能力。本書では、雑談がしゃべれるようになるテクニック満載!という感じではなく、いかに「雑談力」が大切か、という説明にページが割かれています。

雑談それ自体は「意見を伝える」とか「物事をはっきりさせる」という目的じゃなくて、「空気を和ませる」とか「雰囲気をよくする」とか、場を作る役割がある。雑談という言語を使ったコミュニケーションなのに、言葉を伝えるのが目的じゃない。言われてみればそうだなぁ。

テクニックというか、心がけ的なものも紹介されてます。印象に残ってるのは「聞く側」の態度のこと。

雑談はその特性上「なにか伝える」ものじゃないので、山場もなくても、オチがなくても、意味もなくていい。ちゃんとした中身にしないと!と思うと、雑談が苦手になる。別にスベらない話じゃなくてもいいんですよ、とハードルを下げていい。

でも、それには「聞く側」が「これは”雑談”である」と認識していることが必要。「オチは?」とか「結論は?」という態度でいると、雑談は成立しない。ボールを待ってるのにボールが飛んでこない。そもそもボールを投げてない。飛んでこないボールを待つので、おかしなことになる。

この「雑談を聞く態度」で思い出すのは、『笑っていいとも!増刊号』の「放送終了後のお楽しみ」のコーナーのこと。

『笑っていいとも!』は毎回放送終了後にタモリとレギュラー陣が残って、テーマのない雑談をしていた。たまに増刊号の収録でコーナー化するときもあったけど、雑談が盛り上がって変な方向に行ったりするのが楽しかった。中居くんの私服が変→じゃぁ着てきてよ→みんなも私服着て出ようよ、みたいな、突然コーナーっぽく仕上がったりして。

で、何で読んだか忘れちゃったのだけど、この「放送終了後のお楽しみ」について、タモリが雑談なのがいいと言っていて、「雑談はJazzである」って言ってた……たぶん。細かい言い回しは忘れちゃったけど、雑談をJazzに例えていた。

アドリブと、それに応えるアドリブ。フレーズが折り重なって生まれるドライブ感。雑談もJazzも、あらかじめ決められたやり取りじゃないし、誰かが先導するものじゃない。その場で生まれるアドリブであり、そこには奇跡も生まれる。

最近「雑談力」についての本が多く書店に並んでいるけど、雑談の魅力ってこの「どこに行くかわかならい」感じだよなぁ、と改めて思う。なんか変な話しを振られても否定せずに、一旦ノッてみたら、とんでもないところに連れて行かれるかもしれない。行き先のない小旅行。雑談は楽しい。

『海街Diary 怒りのデス・ロード』のあらすじ

映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が気になる。

何が気になるって、「怒りのデス・ロード」である。

原題は”Mad Max: Fury Road”。Furyは激怒という意味なので「怒りの」はいいんだけど、Roadだけで「デス・ロード」。

こういうサブタイトルって誰がつけてるかわからないけど、どうも何かしら付け足してしまう傾向がある。マカレナに「恋の」とつけたりとか。

ただ、「怒りのデス・ロード」は、たぶん何につけても面白いフレーズなのがズルい。『海街diary』『海街diary 怒りのデス・ロード』になる。観たい。観たいので、あらすじを作ってみた。それぞれの公式サイトに載ってるあらすじを混ぜ合わせると、こんな感じになる。

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まぶしい光に包まれた夏の朝、石油も、そして水も尽きかけた鎌倉に住む三姉妹のもとに届いた父の訃報。十五年前、父は家族を捨て、その後、母(大竹しのぶ)も再婚して家を去った。父の葬儀で、三姉妹は愛する家族を奪われ、本能だけで生きながらえている腹違いの妹すず(広瀬すず)と出会う。資源を独占し、恐怖と暴力で民衆を支配するジョーの軍団に捕われたすずに、長女の幸(綾瀬はるか)は思わず声をかける。「鎌倉で一緒に暮らさない?」反逆を企てるジョーの右腕・幸と、配下の全身白塗りの次女・佳乃(長澤まさみ)は何かとぶつかり合い、三女の千佳(夏帆)はマイペース。そんな三姉妹の生活に、すずが加わった。季節の食卓を囲み、それぞれの悩みや喜びを分かち合っていく。しかし、祖母の七回忌に音信不通だった母が現れたことで、一見穏やかだった四姉妹は奴隷として捕われた美女たちを引き連れ、自由への逃走を開始する。凄まじい追跡、炸裂するバトル……。絶体絶命のピンチを迎えた時、秘められていた心のトゲが見え始めるー。

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観たい。石油も水も尽きかけた古都鎌倉。本能だけで生きながらえてる広瀬すず。クライマックスの大竹しのぶとの白熱するバトルも見どころだ。

あと全身白塗りの長澤まさみも観たい。

『アルプスの少女ハイジ』にトライさんはいない

ぼんやりテレビを見ていたある日、ふとその可能性に思い至った。

まさか、いやそうかもしれない。恐る恐る、しかし少しの確信を持って、子どもたちに言ってみた。

「アルプスの少女ハイジに、ホントはトライさんはいないんだよ」と。

返事は「えー!うそ!」だった。やっぱり。やっぱりだったか。

『アルプスの少女ハイジ』をベースにした「家庭教師のトライ」のCM。元となったハイジの画質そのままに合成されたキャラクター・トライさん。吹き替えもハイジたちと会話しているように絶妙に変えてあって、すっかりハイジの世界に馴染んでいる。

うちの子どもたちは『アルプスの少女ハイジ』本編より先に「家庭教師のトライ」に触れてしまったので、もうすっかり「トライさん」がハイジの登場人物にいると思っているのだ。無理もない。あんなに馴染んでたら無理もないのである。

このあいだスーパーに行ったとき「アルプスの少女ハイジ パンチップス」なるお菓子があった。パッケージを指さして、「ほら、トライさんいないでしょ」と再度教えた。

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「えー、ホントだ」と一旦は納得した娘8歳。しかし、「後ろの家の中にいるんじゃないの?」とまだ諦めていなかった。

いない。いないんだって!ハイジにゃ学校も、試験もなんにもないんだって!(夜は墓場で運動会でもない)

もういっそこの調子で、いろんな名作アニメにトライさんを出してほしい。999に乗り込み、哲郎とメーテルに夏期講習を勧めるトライさん。虎の穴でタイガーマスクに個別学習をするトライさん。少年院で丹下段平の葉書を受け取る矢吹丈に、通信学習も合わせてオススメするトライさん……。

どんなアニメにもトライさんが見切れる。トライさんが共通言語になる。トライさんを介して世界がつながり、一つになる。We are the world. We are the トライさん。

「あなたもサザエさん わたしもサザエさん」みたいになってきた。カツオにこそトライさんがいる気もする。