なんとかして「いづい」を伝えたい

宮城の方言で「いづい」というのがある。

方言の話題になると必ず出てくる「いづい」用例としては…

「ジャスねっぱっていづい」(ジャージが張り付いていづい)

というように…あれ。

そうなんですよ。この「いづい」、「しっくりこない」「収まりが悪い」みたいな意味なんですが、なんか標準語にできないんですよ。全然方言だと思ってなかった。もうこうやって説明できないのが「いづい」

なんとかしてこのいづい思いを伝えたい。

写真で伝えられないだろうか。いろいろ探してみる。

歩きにくい。これはいづいなぁ。

これもいづいなぁ。いづぐてわがんねぇなぁ(いづくて大変だなぁ)

「いづい」の概念からいくと、こんな間違いもいづいに含まれる。

いづぐてわがんねぇなぁ。

いづいっていうか、おめぇおどげてんでねぇど(お前ふざけんじゃないぞ)

やっぱり伝えきれない。あぁいづいなぁ。

本当に「大丈夫」なのだろうか

自分は両親に恩返しができているのだろうか、と、ずっと考えている。

結婚して、子供(親にとっての孫)ができて、それでもずっと考えている。

親は子を想うあまり、気を使ったり、謙遜したり、あまのじゃくになったりする。だから、子にしてみると、本当に喜んでいるのか?といちいち疑ってしまう。疑うの良くないし失礼なことだけど、どうしても気になってしまう。

乱暴に分ければ、親から子へのリアクションは以下の4パターンになる。
 

(1)本当に大丈夫で、子に大丈夫と伝える。
(2)本当は大丈夫じゃないけど、子に大丈夫と伝える。
(3)本当は大丈夫だけど、子に大丈夫ではないと伝える。
(4)本当に大丈夫ではなくて、子に大丈夫ではないと伝える。
 

正直に言うと、僕は(2)のパターンに悩んでいる。一つの優しさの形なのだとは思う。思うのだけれど、それで安心してたら実は違っていた、という経験があるのだ。とてもショックだった。一度(2)や(3)のパターンを経験すると、もうどのパターンなのかわからなくなるのだ。

盆と正月の帰省や、母の日、父の日、敬老の日。節目節目でとても悩む。過ぎてからやっぱり違ったかもしれないと悔やむ。そうやって考えていること自体が孝行のひとつ、と言われたことがある。でも、もうむしろ「呪い」に近い。何をやってもダメな気がする。まして、実家は東日本大震災で被災してしまった。ますますわからなくなった。
 

一連の生活保護の騒動を遠巻きに見ながら、ここのところずっと悩んでいる。
 

僕の父は、母は、本当に大丈夫で、僕に大丈夫と言ってくれているのだろうか。
 

「知らないドラマ」の存在を知るということ

この週末に石巻から両親が来ておりまして、お土産をたくさん持ってきてくれました。その中にあったのが長谷川製菓の「味じまん」というローカルお菓子。

ピーナッツ入りのせんべい…になるのかな。せんべいよりも柔らかくクッキーのような生地。僕の子供の頃からの大好物。

久しぶりだなぁー、と食べてたんですが、ふと気がついた。パッケージの長谷川製菓の文字が、「味じまん製菓」になってる…?

母親に聞いてみた。製造元の長谷川製菓は「味じまん」しか作っていない小さなとこなんですが、東松島の工場が震災で被災。長らく製造できない状態が続いていたとのこと。

それが今度は登米市に拠点を移し、「味じまん製菓」として再出発していたのです。

全然知らなかった。

自分が知らないところで、自分が大好きだったものがピンチになって、そして乗り越えていた。

たぶん、そんなドラマは無数にあって、ほとんどのドラマを知らずに僕は過ごしている。距離も時間も離れれば離れるほど、知らないドラマは多くなるのだろう。

全てを知るのは到底無理な話だけども、「知らないドラマがある」ことを知っておくのはとても大事なことだと思う。そこには確かに、人間がいるのだから。

味じまんを食べながら、知らないドラマに、味の向こうにいる人々に、思いを馳せる。

あと一週間で、震災から一年。
 

※ミヤギテレビの取材
http://www.mmt-tv.co.jp/bandesu/teiban/burabura/101108.html
http://www.mmt-tv.co.jp/kibou2011/archive201202.html
 

実家には僕の小さい頃の写真がない

正確には、あった、だけど。

東日本大震災による津波の被害を受けた石巻の実家は、水没した一階に家族のアルバムが保管されいた。泥とヘドロまみれになった家族のアルバムは、他の瓦礫とともに処分された。写真を再生してくれるボランティアの存在を両親が知っていたかはわからないけど、無力感や脱力感から処分したのかもしれないし、膨大な瓦礫を早く目の前から消したかったのかもしれない。

アルバムに残っていた家族写真たち。フィルムカメラの時代だから、今みたいに思いつきでパシャパシャ撮ったものではなく、ここぞという場面で、カメラを前におすましして、記録として残したものが多かったはずだと思う。

撮られた側の小さな小さな僕は、撮られたことを覚えていない。撮った側の両親は、僕を含んだ光景も含めて見ている。言ってみればその写真は、両親の視点なのだ。ある程度、記憶にも残っているだろう。

もし撮られた側の僕が汚れたアルバムを前にしたら、なんとしても残したい。その視点は、その記憶は、どうしても手に入らないから。

今はデジカメで、撮る枚数はフィルムほど制限はない。僕も親バカの端くれとして、我が子の写真を毎日パシャパシャ撮ってる。クラウドとかにバックアップもしてる。

でも「想定外」の事態だってある。

その時が来ないことを願うばかりだけど、いまはシャッターを切って安心せずに、目の前の光景、声も光も風も匂いも、すべて体で感じておきたいと思う。

記憶を少しでも語り継げるように。
 

ちなみに。

僕の小さい頃の写真、実は僕の家に何枚かあった。数年前、結婚式で流すスライドを自作した時に、両親から何枚か送ってもらって、それをスキャンしてた。被災後、全部印刷して、こちらから逆に実家に送った。

その中には、庭に出したビニールプールで、全裸ではしゃぐ僕の姿もある。

そんなのばかり残ってしまっている。
 

宮城弁「んだ」講座

 
「そう」→「んだ」
「そうそう」→「んだんだ」
「そうなら」→「んだごって」
「そうです」→「んでがす」
「そうですよ」→「んでがすと」
「そうだったら」→「んだごったら」
「そうですよね」→「んだっちゃ」
「そうですよねー」→「んだいっちゃー」
「そうでしょう?」→「んだべ」
「そうでしょうー?」→「んだすぺー」
「そうなんですよね」→「んだおん」
「そうなんですよねー」→「んだがらー」
「それではこの辺でさようなら」→「んでまず」

お盆に帰省する方は道中お気をつけて。すぺたのかぺたのあぺとぺかだってんでねぇど。

んでまず。