無意味が意味を持つ、「業界」の寓話。三崎亜記『玉磨き』

200年以上「玉」を磨き続ける、通勤用観覧車を運営する、引きこもり達が部品作りを分業する、海に沈んだ町の商店街組合を切り盛りする…。

三崎亜記『玉磨き』は、虚構の「業界」にルポライターが取材する、6篇からなる短編集。

『となり町戦争』では「戦争をする自治体」、『廃墟建築士』(→過去のレビュー)では「廃墟を建てる建築士」、など、架空の「業界」で物語を描いてきた。

『玉磨き』では、ルポルタージュの形を取って、その「業界」の人達を取材する。なぜ始めたのか?なぜ続けるのか?これからどうするのか?

架空の「業界」がもたらす物語でなく、「業界」そのものを掘り下げていくのが、『廃墟建築士』などと異なるところであり、見所になる。

登場する「業界」たちは、効率化や大量生産といった、現代の産業の常識から反対のところにいる。

表題作「玉磨き」で先祖代々伝わる玉を磨き続ける職人のストイックさも、「只見通観株式会社」で通勤用観覧車を作った信念も、「新坂町商店街組合」で海に沈んだ町を想う人々も、非効率で意味が無いことのようにみえる。

でも、その「業界」の人達が、自分たちのしていることを真摯に伝える姿を読んでいると、段々常識が揺らいでくる。

効率化を図り、価値を創り、儲けを出す。それが産業の常識と思ってるから、意味があると思っているから、「業界」を無意味なものと判断していたことに気づく。

どんな想いを込めているか、背景になにがあるか。現代の産業では無意味になっていたことが、この「業界」たちでは意味を持つ。

失われつつある、忘れられているもの。「業界」たちの持つ意味と、同じ意味を持っている実在の業界が、この世界のどこかで、今日も細く続いているはず。『玉磨き』は、心の底に引っかかっていた違和感をノックする、現代の寓話だと思うのだ。

『機械男』と<美脚>と「トランスヒューマニズム」

もともと読書感想文がメインだったこのブログ、近ごろiPhoneの話ばっかり書いてしまってますが、本も読んでますよー。

最近読んだのがこれ、『機械男』です。

「電車男」みたいなタイトルだけど、原題が「Machine Man」なんだからしょうがない。

主人公のチャールズはいわゆる”ギーク”な技術者。人付き合いが超苦手。機械しか愛せない。だって人間って非論理的だし。

そのチャールズ、職場で携帯を探しているうちに万力に足を挟まれてしまう。片足切断の大事故。病室で意気消沈するチャールズの元に、ローラという女子が義肢装具士としてやってくる。ローラが持ってきた義足をあれこれと試してみるものの、そのローテクぶりに逆にビックリする。GPSつけたりすればナビとかできるのになぁ。

思いついたら止まらないチャールズ。とりあえずの義足を付けて職場に復帰すると、自分の研究室で新しい義足を作りはじめる。バッテリーを積み、プロセッサを搭載して車輪を制御して、Wi-Fiもつけて…。

そうしてできた高性能の足。ローラにも大好評。お気に入り過ぎて<美脚>と命名。いやーいいなぁこの美脚。それに比べて、残っているこの生身の足ときたら…!

…読者の嫌な予感の通り、もう片方の足も切断してしまうチャールズ。しかしここから事態が急転。<美脚>の可能性に目をつけた会社側が、新規プロジェクトとして立ち上げ、人間のパーツを「ベター」なものにしようとして…。

「論理」と「非論理」のせめぎあい

実は本書、すでに映画化が決定している。監督は『ブラック・スワン』や『レスラー』のダーレン・アロノフスキー。体の一部が機械と化した人間が突っ走るので、『トランスフォーマー』とか『アイアンマン』とか、SFXバリバリになりそうなんだけど、そっち方面じゃない。

それはこの話が、機械になっていく男子と、彼を愛おしく想う女子の、少しねじれた愛の物語でもあるからだと思う。読んでる最中は入り込んでるので感じなかったけど、今思うと、ちょっと狂気ですらある。ダメだよ自分で足切断しちゃ。

チャールズは「論理的」を好んで機械化を望むんだけど、彼女への好意という「非論理」が大きくなっていく。

後半はアクション満載(!)な展開なんだけど、この「論理」と「非論理」のせめぎあいが見どころでもある。

その辺が映画にも反映されるのかなぁ、とも思うのです。

仮想を実現する「トランスヒューマニズム」

『機械男』には<美脚>の他に、目が良くなるコンタクトレンズ(ズーム機能まである)とか、体に貼るだけで肌がキレイになるパッチ、なんても出てくる。人間の「機能」を機械によってどんどん良くしようとする。

これ、お話の中のことなのかな、と思ったら、実際に「トランスヒューマニズム」って思想があるんですよ。

トランスヒューマニズム(英: Transhumanism、省略して>HやH+と書かれる場合もある、超人間主義などと訳される)は、新しい科学技術を用い、人間の身体と認知能力を進化させ、人間の状況を前例の無い形で向上させようという思想である。また、トランスヒューマニズムは人間の機能拡張やその他将来の科学技術の開発・使用により、将来起こりうることを研究する学問でもある。
トランスヒューマニズム – Wikipedia

H+ って!と思いつつ、なんとなく気にしていたら、そんな感じのニュースも出ていることに気づくわけで。

耳に磁石をインプラントする「ヘッドフォン」(動画) « WIRED.jp
世界初! 倍率切替可能な「望遠コンタクトレンズ」 « WIRED.jp
脳に電流を流して反応速度を高めるゲーマー向けヘッドセット「FOC.US」が発売 – DNA

「望遠コンタクトレンズ」なんて、まさにお話に出てきたやつですよ。ほ、ホントにできるんだ。

いつか冗談じゃなく、『機械男』の世界が現実になるかもしれませんね。

【書評】『レイヤー化する世界』で『ナリワイをつくる』

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photo credit: rickz via photopin cc

たまたま似たテーマを違う切り口から語る本を2冊読んだので、感想文をつなげて書いてみようと思います。

どちらも、いま当たり前と思っている社会をスライスして、断面を「ほら」と見せててくれる本です。

レイヤー化する世界

『レイヤー化する世界』は、ジャーナリスト佐々木俊尚さんの最新刊。コンピュータの普及による「第三の産業革命」が世界になにをもたらすかを、膨大な文献を元に描きだします。

↑ 佐々木さんの奥さんが手がけた、Kindle版の表紙の方が好きだなぁ。

未来のことを語るのかな…と思わせて、まずは今の世界のシステムを語るために、昔の世界のシステムがどうったのか、歴史を振り返るところから始まる。ローマやイスラムなど、多くの帝国が治めていた中世に。そして大戦以前の近代に。本書の半分近くがこの世界史に費やされる。

世界史と言っても、偉人も年号もほとんど出てこない。語られるのは歴史の中の「人と富の流れ」。

ターゲットを若い人に設定してて、丁寧にわかりやすく説明していくれる。僕、高校のときは世界史を取ってたんですけど「そうだったんだ!」の連続。全然わかってなかったですよ。

多数の民族を抱えていた「帝国」から、一つの民族が一つの国を作る「国家」へ、どのように世界のシステムが変化していったのか、スルスルと頭に入ってくる。

そして世界史が終わり、未来の話に。ここで、なんでこんな回り道をしたかがわかる。「第三の産業革命」により、国家から「帝国」に世界が戻っていく、と論じるためなのだ。

GoogleやApple、Amazonなど国境を超えた企業が多く現れてきた。その企業が作る<場>では、多数の民族が国境を超えてひしめく。そこには先進国も途上国も関係ない。むしろ、先進国の富が途上国に流れていく。フラットになる。

そんな時代を迎えるにあたり、大事になってくるは、自分が属する<レイヤー>。

会社の肩書きだけでなく、家庭、趣味、地域など、様々な場でそれぞれのつながりが必要になる。

<レイヤー>を多く持てば、モンタージュ写真のパーツが増えるように、未来の選択肢が増えていくのだ。

僕がどうしても気になる2つのこと

『レイヤー化する世界』は世界史から現代、未来までをスルスルとつなげ、とても刺激的で面白い本。これを読んでるか読んでないかで、未来の捉え方が変わってくるですよ。

でも、僕はここで描かれる未来に、気になることが2つあるんです。

1つは、「グローバル化」

富がフラットになり、テクノロジーが国境を超えた<場>を支配したとする。そこで残っていくためには…となると「グローバル化」が叫ばれる。

国境を超えて<レイヤー>でつながりあった人とチームを組んだり…ということになると思う。英語ができるかどうか…もそうだけど、戦う、奪い合う、というのがどうも性に合わない。ご近所レベルでなんとかなったりしないのかな。

もう1つは、「エネルギー」

震災後、原子力発電所が停止し、代替エネルギーを求め、深刻なエネルギー不足とまで言われた。

テクノロジーが<場>を作るためには、そもそも電気が必要。でも電気がないところだってたくさんある。「電気がないと何もできない人」になるのが怖い(※過去記事:「電気がなければただの猿」にならないために

この2つの気になるところの、一つの答えとなるのが『ナリワイをつくる』というこちらの本。

ナリワイをつくる

『ナリワイをつくる』は、DIYやアイデアを駆使して「ナリワイ」をつくる方法論を説明してくれる。著者の伊藤さんが自ら、DIYやアイデアを駆使してナリワイを作っているのだ。

伊藤さんが言う「ナリワイ」の定義は、「人の役に立つと同時に自分の頭と体を鍛える」こと。

じゃまなブロック塀をハンマーで壊す、ワークショップを開いて床を張る、年に1,2回モンゴルツアーを企画する、廃校の小学校で結婚式をプロデュースする…。

伊藤さん自ら、世界と戦わない「非バトルタイプ」を自称するだけあって、ナリワイは他の稼業と戦わないよう工夫されている。

プロがやってる仕事でも、採算が合わなかったり、細かい対応ができなかったりするものがある。その隙間に入り込む。入り込んでやってみると、自分の「できること」が増える。「知ってる人」も増える。そしてまた別のこともできるようになる。

お金を使って豊かになったりとか、頑張って成功したりとかは、そりゃそうなるのは当たり前なので、少ない力でできるよう工夫したい、と伊藤さんは言う。あまりにあっけらかんと書いてあるので素通りしそうだけど、すごい境地だ。心身すり減らして「当たり前」を実現するの、アホらしくなってくるなぁ。

『レイヤー化する世界』の言葉を当てはめれば、伊藤さんは複数の「ナリワイ」レイヤーを持っている。でもそのレイヤーは世界サイズというより、地域サイズ。こんな大きさのレイヤーもあるのだ。

「共犯」と「共存」

『レイヤー化する世界』には「テクノロジーとの共犯関係が始まる」という副題がついている。

テクノロジーは政府と違って、使っている人を支配する側に回る。保証とかない。だったらこっちも利用できるだけ利用してやろう、というのが「共犯」という言葉になっている。

一方、『ナリワイをつくる』は、「人の役に立つと同時に自分の頭と体を鍛える」が使命なので、どちらかと言えば与える側にいる。こちらは世界と「共存」していく。

「共犯」と「共存」。意味は違えど、どちらも「共」という字が入る。共に。ともに。

一人では生きづらい世の中で、大切なのは誰かと共にいることなんだろうなぁ。

2冊ともオススメですよー。

死に方は生き方をあらわす 『僕の死に方 エンディングダイアリー500日』

2012年10月、肺カルチノイドという難病で亡くなられた、流通ジャーナリスト・金子哲雄さん。享年、41歳。

肺に9センチの腫瘍ができ医者から「余命0日」を宣告された金子さん。いつ死んでもおかしくない。

それでも、テレビ・ラジオに出演し、在宅で療養と仕事をし、自分で葬儀の全てをプロデュースしてから亡くなられた。

この本は、自身の手によって書かれた、一部始終の記録であり、終末医療のルポルタージュ。

そこまでして金子さんを動かしたのは「人を喜ばせたい」という一心だった。

まず驚かされるのが、この本が書かれた時期。

自宅で危篤状態に陥り、奇跡的に回復したのが2012年8月22日。そこで「最後に本を出したい」と思い立つ。病床で原稿を書き、脱稿したのが約1ヶ月後の9月27日。亡くなったのが、10月1日。

本当にギリギリの状態で書かれた本なのだ。でも、読んでいる最中はそんなことを全然感じない。むしろ、回復した人が過去を振り返っているようにさえ感じる。

病気が発覚した時、金子さんは周囲に知らせないことにした。関係者に迷惑をかけないため、なにより、自分自身のため、最後まで仕事を続けたかったらだという。

この本が書かれた動機の一つが、「迷惑をかけてしまった関係者各位」に向けたお詫びとお礼なのだ。本を読む相手を思い浮かべて書いているからこそ、しっかりとした筆致が保たれているのではないかと思う。

残された人のために、残された記録

本を書いたもう一つの動機が、終末医療の体験を広めること。

「肺カルチノイド」という聞きなれない病名も、同じ病気になった人のことを考えて、金子さん自身が「死亡診断書に書いてほしい」と希望したから。

とにかく、他の人のことを考える。

仕事は、ロケに行けなくてもラジオなら電話出演ができる。葬儀を行う場所は、都心で駅から近くタクシーを使わない場所がいい。葬儀費用で揉めないように自分で出せるよう遺言を残す。地方の関係者各位は告別式に来るのは大変だから、各地で食事会を行う「感謝の全国キャラバン」を奥さんに頼む。自宅で死んだ時に救急車を呼ぶと不審死扱いされるから、まず医者に連絡することと言付けする…。

なにもそこまで、の連発。そして「流通ジャーナリスト」らしく、治療や葬儀にかかる費用まであますところなく公開する。

どういう治療をしたのか、どういうことが困るのか、どういう考えに至るのか、「末期がん患者」自身じゃないとわからないことを、しっかりと残しているのだ。

普通、死を前にしたら、そんなことをする余裕なんてない。まして死ぬ1ヶ月である。それなのに、金子さんはこの本を読むであろう同じ境遇の人のことを考えている。

生も死も、同じように

渾身の「渾」という時は「すべての」という意味を持つ。「渾身」で、からだ全体の、という意味になる。

命を、からだを、全部こめられたこの本は、まさに渾身のルポルタージュ。

最後の1ヶ月、奥さんの稚子さんによくこう言っていたという。

「稚ちゃん、生きることと死ぬことって、やっぱり同じだよな」

生きることと同じように、死ぬことも一生懸命に向き合った人の言葉だなぁ、と思うのだ。

“かもしれない生活”のススメ。うちの子爆笑の絵本『りんごかもしれない』

最近1日に2度3度「よんで!よんでー!」とせがまれます。

ヨシタケシンスケさんの絵本『りんごかもしれない』でございます。

あるひ がっこうから かえってくると……
テーブルのうえに りんごが おいてあった。

でも……もしかしたら……
これは、りんごじゃないのかもしれない。

りんごを見つけた男の子が、「りんごじゃないかもしれない」「おおきなサクランボの いちぶかもしれない」「なかはブドウのゼリーかもしれない」と、どんどん妄想を膨らませていきます。

エスカレートする「かもしれない」は予測不能で、もはや「りんご大喜利」。ページをめくる度に子供たち大爆笑。一度読んでわかってるはずなのに、何度でも笑ってます。

娘六歳はオリジナルの「○○かもしれない」を考え出すし、息子二歳もお風呂中に「タオルかもしれない!」と言うだけでゲラゲラ笑う状態です。

「かもしれない」って、楽しいもんなぁ。

「かもしれない生活」は楽しい

自分には隠された超能力があるのかもしれない、生き別れの双子がいるのかもしれない、自分以外の人間がみんなで自分を騙しているのかもしれない…

僕らって、子供のころ、いろんな「かもしれない」を持ってたじゃないですか。「かもしれない」が持つ妄想パワーは凄まじくて、想像するだけで楽しかったり、ちょっと信じちゃったり。UFO呼べるかもしれないとか。

大人になっても「かもしれない」は生きているけど、どちらかと言うと「危険かもしれない」「嘘かもしれない」など、ネガティブな方向に向かいがち。

『りんごかもしれない』が見せてくれる「かもしれない」は、ホント、おバカで楽しい「かもしれない」ばかり。こんな目線を子供たちが持ってくれたら、いろんなことが楽しくてしょうがなくなるだろうなぁ。

常に危険を予測しながら車を運転することを「かもしれない運転」なんて言ったりします。

『りんごかもしれない』を読んで、子供たちがポジティブな「かもしれない生活」をしてくれたら、パパはすごく、嬉しいかもしれない。