タモリにとって「勇気」とはなにか〜『タモリ学』と『嫌われる勇気』

『タモリ学』を読み終わりました。

愛読しているブログ・てれびのスキマさんの著書。「タモリにとって「タモリ」とはなにか?」を旗印に、タモリの発言や関係者の証言を「偽善」「意味」「他者」「希望」などのキーワードに沿って並べて語っていく。

情報源は、過去の出演番組や雑誌のインタビューや対談、関連する芸能人の著書からブログまで多岐にわたる。本人や関係者へのインタビューは一切無い。既に散りばめられている材料を元にタモリ像を立ち上げていく様子は考古学のよう。

そして読み終わってすぐの感想は、「これ、『嫌われる勇気』じゃないか!」だった。

『嫌われる勇気』は、フロイト、ユングに並ぶ心理学の巨匠、アルフレッド・アドラーの思想(アドラー心理学)を物語形式を用いてまとめた本。

アドラー心理学は別名「個人心理学」とも呼ばれ、「どうすれば人は幸せに生きることができるか」という問いに向き合う。

その問いに、アドラーが用意した”答え”と、タモリの生き方が、『タモリ学』を読めば読むほど一致しているのに気づくのだ。

タモリの生き様は、幸せや自由を得ることを約束されたものなのか?

これは早すぎた「タモリの法則」なのだろうか?

「いま、ここ」を真剣に生きる=「これでいいのだ」

『嫌われる勇気』のアドラー心理学は、「トラウマを否定する」ことから始まる。

過去に何が起きていようと、その出来事をどう捉えるかは自分次第。厳しいことを言えば、目の前の困難から逃げるためにトラウマという言葉を利用している(これを「人生の嘘」と呼ぶ)。

変わらない過去や、不確かな未来には執着しない。大切なのは「いま、ここ」であり、その刹那を真剣に生きることを求める。

タモリはどうか。

タモリは、テレビの本番をジャズのアドリブに例え「現場に立ち会っている」生の感じを好む。また、「いいとも!」長続きの秘訣として「反省をしない」と語る。終わったことはしょうがない。「毎日が上出来」と切り替える。

加えて、未来にも希望を持たない。「目標なんて持っちゃいけません」「人間、行き当たりばったりがいちばん」と語る。

タモリには、過去も未来も存在しない。現場の「いま、ここ」を、現状を肯定する。

その生き方は、上京後に居候し、親交を深めた赤塚不二夫の言葉に宿る。

「これでいいのだ」

承認欲求を否定する = 「意味なんてどうだっていい」

アドラー心理学では、承認欲求を否定する。

「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と断言し、これを解消するために、対人関係に生じるあれこれを「自分の課題」か「他者の課題」の2つに分離させる。

自分がやったことに対して、他人がどう思うかは「他者の課題」であり、こちらがヤキモキしようがそれは「自分の課題」ではない。

承認欲求についても同様で、他人が下す承認はあくまで「他者の課題」に基いて下されたもので、「自分の課題」ではない。

人は他人の期待を満たすために生きているのではない。他者の課題には介入せず、自分の信じる最善の道を選ぶことを勧める。

タモリはどうか。

元々タモリの芸は宴会芸であり、舞台で広く見せよう磨いたものではない。「四ヶ国語マージャン」などのネタも、上京後に赤塚不二夫や筒井康隆の「ムチャぶり」にアドリブで応えて生まれたものが多い。

無意味でムチャクチャなものを好み、お笑いの「お約束」には乗らない。MANZAIブームが起きたときも、反骨心から「ウケないのが気持ちいい」とマニアックなモノマネを舞台にかける。

冠婚葬祭も好まず、偽善を嫌う。マニアックで変態。他人に迎合せず、自分の価値判断に従う。

タモリは「自分の課題」にのみ真剣になっているのだ。

タモリにとって「勇気」とはなにか

『嫌われる勇気』では、書名にもある「勇気」という言葉がキーワードになる。

「勇気」といっても、勇ましく何かに立ち向かうという猛々しいイメージではない。やるかやらないかという場面でやるを選ぶ、その決断力を「勇気」という言葉で表現する。

書名の「嫌われる勇気」も、「自由とは、他者から嫌われることである」というアドラーの思想から生まれている。

全ての人から好かれることは不可能であり、承認を求めず自分の道を選ぶことは、誰かに嫌われることを意味する。自由を得るためには、嫌われることを恐れない「勇気」が必要であると。

では、タモリにとって「勇気」とはなにか。

「流されること」ではないかと思うだ。

大学のジャズ研では先輩の口添えで司会を始める、サラリーマン時代に会った山下洋輔に上京を薦められる、上京後赤塚不二夫に出会ってテレビに出るようになり、横澤彪に口説かれて「いいとも!」を始める。

タモリの仕事のほとんどは誰かが持ってきたもの。嫌だと断ればそれまで。その流れに乗るか乗らないか、流されるか流されないかの場面で「流される」を選ぶ。

それがタモリの「勇気」であり、人生に自由を得る手段だったのではないだろうか。

理論編と実践編

他にも「共同体感覚」「自己受容」など、タモリ=アドラーを結ぶキーワードが『タモリ学』『嫌われる勇気』には驚くほどたくさんある。

『嫌われる勇気』を読んで、「こんなことできる人間なんていないよ」と思った人は、ぜひ『タモリ学』を読んでみてほしい。

『タモリ学』を読んで、「この生き方の源泉はなんだろう」と思った人は、ぜひ『嫌われる勇気』を読んでみてほしい。

一見、交わることのない2冊だけど、まさに『嫌われる勇気』:理論編、『タモリ学』:実践編とも言える組み合わせになっているのだ。

2000年代、タモリは「口コミ」で広まった

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樋口毅宏『タモリ論』を読みました。

「笑っていいとも!」のエピソードを主軸に、すごさを感じさせないけどすごい、「武道の達人」のような笑いの間合いを持つタモリを論じる…というより、ラブレターを綴る、と書いたほうがしっくりくる本でした。

読みながら思ったのは、世間に対する「タモリ」の評価が、昔と変わってきているということ。

もっと言うと、ネットが発達してからタモリ株が上がってきたのではないか、タモリは口コミで広まったのではないか、ということ。

昔は嫌われていたタモリ

僕が子供のころ、「タモリ」はどちらかというと、嫌われている部類のタレントだったと思います。

今よりテレビには出ていたと思います。「今夜は最高!」「タモリの音楽は世界だ」「ウオッチング」など、レギュラーも多かったです。

でも、「抱かれたくない男」ではランキングの常連。「いいとも」を初めてからはネタを見れることもなく、素人いじりばかり目に付く。車のキーをクルクル回しながら「えびふりゃー」を注文という名古屋いじりで、中部地方の反感を買ったこともありました。

それでも「お笑いBIG3」として、たけし・さんまと並んでくくられますが、たけし・さんまの「動」の笑いに対してタモリは「静」でした。

新春のBIG3ゴルフでは、英語禁止ホールでさんまがそのおしゃべりで次々にペナルティを取られていくのに対して、ひたすら沈黙を守って日本語すらしゃべらないという、バラエティ番組にあるまじき負けず嫌いさで勝ち残っていました。

「ミュージックステーション」「ボキャブラ天国」など、ゴールデンタイムの放送は続いてましたが、どちらかというとタモリは「笑っていいとも!」をサラリーマンのように毎日こなす、マンネリの象徴のようになっていました。

すべては「タモリ先生の午後。」から始まった。

そんなタモリの評価を、大きく引き上げた存在が「ネット」です。

ネットにタモリが登場した一番最初の出来事は、ほぼ日刊イトイ新聞の「タモリ先生の午後。」だと思います。日付を見ると2004年。今から10年前のこと。

「やる気のあるやつは去れ」という言葉で象徴されるように、肩の力が抜けていて、ちょっと変態で、独特のモノの見方をしている。そんなタモリの言葉を、この連載で初めて聞いた人も多いと思います。そんな機会、今までありませんでした。

その後、イグアナの真似などの密室芸が動画サイトに投稿されたり、「タモリ倶楽部」でふるまった料理のレシピがブログにアップされたり、伝説的エピソードがSNSで広まったり…。

「タモリはすごい」と思っていた人々が、ネットという手段を得て、タモリを広めたんです。「俺も実はすごいと思っていた」という隠れファンがカミングアウトできる下地もできました。

そして「いいとも」しか知らない世代も「これはすごい」とコメントする存在になりました。

2000年代、タモリはネットで「口コミ」で広まったんです。

「静」の狂気、タモリ。

あんなに長い間テレビに出てるのに、どうしてタモリは「口コミ」で広まったのか。

タモリの笑い、タモリのすごさは、わかりやすい形で表に出ないのが原因だと思います。

しゃべりで場を回すわけでもない、映画監督になって作品を残すわけでもない、破天荒な芸能生活を送っている訳でもない。

その見た目は「静」ですが、言葉・思考・ふるまいを拾い上げれば、変態であり、人間味があり、そしてそれは、時に狂気でもある。

時々みせる狂気を拾い上げ、第三者がタモリを語らないといけないんです。

今年の3月、「笑っていいとも!」が終わります。

いいとも終了後、タモリを見る機会が増えるのか減るのか、それはまだわかりません。

ひとつ言えるのは、今後もタモリは語られ続けるだろうということ。

ちなみに『タモリ論』は、いいとも終了の報が出る前に上梓されました。その後のタモリ論もぜひ聞きたいし、のっかってしゃべってみたいと思うのです。

防犯ブザーも”知らない人に気をつけろ”も役に立たない!「犯罪は予測できる」

現在の防犯の常識は「間抜けな犯罪者」を元にできている。

と言ったら言い過ぎかなぁ。しかしこの本を読むとそんな気がしてくる。

本書によると、ここ数年の検挙率は三割。認知された犯罪の、残り七割の犯人は捕まっていない。

そして、犯罪と認知されなければ捕まえる犯人は存在しない。2009年、警察が取り扱った変死体のうち、司法解剖に回されるのは全体の約一割だそうだ。

また、年間2000人が失踪宣告され、8万人が家出人捜索され、戸籍上存在しているが所在不明の高齢者は23万人もいる。行方不明の小中学生も1000人いる。

「バレてない犯罪」の数は少なくない。

じゃぁどうやって犯罪を未然に防ぐのか。その解の一つが、本書が教えてくれる「犯罪機会論」だ。

「入りやすく」「見えにくい」場所が危ない

捕まっていない犯罪者には共通点がある。犯罪が成功しそうな場所でしか犯罪を行わないのだ。さらに分析していくと、その特徴は二つ。「入りやすい」「見えにくい」

体育館の裏にある学校の裏門、幹線道路から少し入った道、立体駐車場の屋上、人通りの少ないトンネル、スーパーの「だれでもトイレ」

どれも入りやすくて、かつ、周囲から見えにくい場所。これらの場所、実際に殺人や誘拐が起きてます。聞いたことある事件ばっかり。そこも解説あり。

この考え方を基本にして、いまの日本の防犯について、アッと声が出る指摘をドンドンしていく。

・本当の不審者はマスクやサングラスをしていない
・騙されてついていく子供は防犯ブザーを鳴らそうと思わない
・バレないと思っている犯人は防犯カメラを気にしない
・犯人だって暗闇は不利なので街灯があるところを好む
・「知らない人に気をつけて」と言っても、子供にとって二言三言交わした人はもう「知ってる人」になる。

ほんの一部ですが、特に子を持つ親御さんにとっては背筋が寒くなる話だと思います。じゃぁどうしたらいいのよ!

「入りにくく」「見えやすい」場所にしてしまう

もちろん危険を唱えるだけでは終わりません。大事なのは犯罪を予測した上での予防。「入りやすく」「見えにくい」場所が危険なら、逆をつけばいい。「入りにくく」「見えやすい」場所にしてしまえばいいのだ。

いくつも具体的な対策が提案されていて、その中の一つが「地域安全マップ」。実際に大人や子供が地域を回って、「入りやすく」「見えにくい」危ない場所のマップを作るというもの。

実際に見て回ることで、こういうところが危険だとわかる。地域の人と話すことでコミュニケーションが生まれる。この場所を改善しようとする動きがでる。

そしてなにより、危ない場所を察知する「景色読解力」が子供に身につく。この近道いつも通ってたけど危ないんだな、みたいに子供に気づきが生まれるそうだ。

バレてない犯罪者は、家の近くにひっそりいるかもしれない。「気をつけよう」という精神論じゃなく、データに基づいてしっかりと犯罪を行う機会を潰す。犯罪機会論、もっと広まってほしいなぁ。

いつも行ってる公園も、実は危ない場所だったりする。親御さんは是非一度読んでおいたほうがいい一冊です。

『銀行強盗にあって妻が縮んでしまった事件』

もう、このタイトルがすごい。なにがなにやらだけど、ホントにこういうことが起こる話なんだからしょうがない。

銀行強盗にあって妻が縮んでしまうんですよ。身長が。

まずこの銀行強盗が何をやったかのかをご説明しますよ。

ある日、カナダの銀行に紫色の帽子をかぶった強盗がやってくる。この強盗、金を要求するのかと思ったらそうではない。

「あなたがたにはそれぞれひとつ、なにかを差し出していただきたい。今お持ちのものの中で、もっとも思い入れのあるものを」

お金を差し出しても「小さく破って捨ててしまいなさい」という。その場にいた13人は首をかしげながら、腕時計や電卓、封筒などを差し出す。強盗は満足気にうなずき、去り際にこう言い残す。

「私は、あなたがたの魂の51%を手に、ここを立ち去ってゆきます。そのせいであなたがたの人生には、一風おかしな、不可思議なできごとが起こることになるでしょう。ですがなにより重要なのは―その51%をご自身で回復させねばならぬということ。さもなければあなたがたは、命を落とすことにおなりだ」

次の日。

13人の身にさまざまな異変が起こり始める。ある者は身長が日に日に縮んでいく。ある者は心臓が爆弾になる。他にも、母親が96人に分裂したり、オフィスが水の底に沈んだり、タトゥーに彫ったライオンが現実に飛び出して追ってきたり……。

全然現実的じゃない。現実的じゃないんだけど、周りの人はそれを受け入れてしまう。こんなに一大事なのに、あらあらしょうがないわね、困ったわね、くらいの感じになってる。

そしてお話はとても短い。全部で130ページ弱。それぞれのエピソードにかける時間がとても短い。さらっと読み終えてしまうのだけど、一つ一つのエピソードや登場人物がとても印象に残っている。

例えば、キャンディーになってしまった女性。シャワーを浴びていて、自分がキャンディーになったことに気がつく。髪の先からつま先まで砂糖菓子。しょうがないので頭にスカーフを巻いてサングラスをする。会社に病欠の電話をする。指をもいで子供たちにあげる。夜中に帰ってきた夫がキスをして、「君を食べちゃいたいよ」と二人で二階に行き、食べられてしまう。

ページ数にして3~4ページ。こんなシーンが次々出てくる。人物-奇妙なこと-エピソードがとても濃く結びついていて、一枚の写真のようなインパクトを残すのだ。短い=情報が少ないからこそ、読者の想像力がエピソードを色濃く補完する。

元に戻るにはどうするのか?魂の残り51%を回復するにはどうするのか?明確な答えはないけども、ところどころにヒントはある。深読みすればどこまでも深みに行ける本だと思う。なにか警句がありそうで、それでいて、ただおかしなだけのような、そんな奇妙な物語。

短さもあいまって、2周、3周とできる本だと思います。黄色いビビッドな装丁はプレゼントにもいいかも。そしてこれは読書会向きだなぁ。いろんな人の「読み」を聞いてみたい。

「ねばならない」という呪縛

森博嗣『「やりがいのある仕事」という幻想』を読みました。森博嗣が語る仕事論。

助教授として勤務するかたわら、『すべてがFになる』で小説家デビュー。小説からエッセイまで250冊以上の本を書き、50歳を前に大学を退職。現在の仕事量は一日一時間。

そんな森博嗣が語る仕事論である。割も身も蓋もないだろうなぁ、と思ったら、やっぱりそうだった。でも、大事なことも書いてある。人間の価値と仕事とは、無関係である、ということ。

人間の価値は仕事とは無関係

仕事は生活(=金銭を得る)ための手段であって、「仕事をしてるから偉い」「稼いでるからすごい」というのはおかしい、と森博嗣は語る。

「仕事が大変だ」「仕事がツラいんだぞ」というのは、大人が子供に対して”大人は偉い”というのをキープするために使うワードであり、大人のいやらしさだ、とまで断言する。逆に「仕事が生きがい」「仕事が楽しい」という人もいるけど、それならどうして土日休んでいるのか。楽しんじゃないのか。

仕事をしなくて生活できるんなら、別に働く理由などない。働いていなくたって人間の価値は変わらない。

こんな感じで「仕事」について持たれている「常識」を、玉ねぎの皮をむくように一枚一枚はいでいく。仕事=人生ではないと、2つの間をすっぱり斬り裂く。

そうして皮を一枚一枚はいでいくと、最後には芯が残る。その芯がなにかというと、それは自分自身に他ならない。

なにぶんこの世は情報が多いだけに、自分の思うこと(自分の意見だと思っていること)がグラグラ揺れがち。でも、そんな声に揺れず、惑わず、流されず、自分がやりたいこと、好きなこと、「正しい」と思うことを信じる。仕事が大事なんじゃない。自分が大事。

それができれば苦労はしない、身も蓋もない、と感じる人も多いだろうけど、「人間の価値は仕事とは無関係」という言葉は、就活で悩む学生さんを安心させるんじゃないかな。

「~ねばならない」に縛られて

読み通してみて、仕事について知らず知らずに「~ねばならない」と考えていることが多いなぁ、と思わされる。

たぶんこの「~ねばならない」は、仕事に限らずいろんなところに浸透している。

立派な大人にならないといけない。安定した企業に入らないといけない。働く女性は家事も育児もやりとげないといけない。○○歳になったんだからそろそろ落ち着かないといけない……。

「ねばならない」があると、そこに悩みが生まれる。できない。でも、やらねばならない。

逆に言うと、「ねばならない」を持たなければ、悩みは生まれない。

自由奔放な子供がまさにそんな感じ。まぁ大人はそこまで無礼講ではないけれど、悩んでいるときは「ねばならない」のメガネがかかっていないか、ちょっと確認してみるといい。

頭の中がグルグルしてもう何も手につかないとき、「ねばならない」の壁に囲まれてないか、空から自分を見下ろせるようになれたらいい。

「おー、囲まれとる囲まれとる」と気がつけたらしめたもので、壁を壊すなり上から乗り越えるなりできたらいい。壁沿いに歩いても出口は見つからない。

ウェットな世の中に疲れた時、ドライな森博嗣の言葉に乾かしてもらう、そんな一冊です。