臨床心理士が語る『水曜どうでしょう』が面白いわけ

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最近、うちの子が「トローリー!」「オー!」を気に入っている。

『水曜どうでしょう』の「サイコロ4」より、立山黒部アルペンルートに挑む登山家の大泉さんである。元々、子供が生まれる前からうちの夫婦は水曜どうでしょうが大好きでずっと観ていて、『水曜どうでしょうClassic』もたぶん全部録画してDVDに焼いてある。そんで、たまたま、テレビがつまらない時にDVDを流してみたら、子供たちが食いつきまくりである。普段は芸能人を呼び捨ての娘8歳も、大泉洋だけは「大泉さん」である。

『結局、どうして面白いのか ──「水曜どうでしょう」のしくみ』は、その名の通り、『水曜どうでしょう』がどうして面白いのかを考察した一冊。といっても、テレビ関係者が書いたわけではない。著者は臨床心理士なのである。

疲れているとき、何も考えたくないとき、どうも『水曜どうでしょう』を観ると「ホッとする」。それはなぜなのか。藤村&嬉野コンビにそれぞれ合計約6時間もインタビューをして、臨床心理士の視点から考える。

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ハトはなぜ首を振って歩くのか

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すべてのモノには理由がある。

潮の満引きがあるのも、太陽と反対側に虹ができるのも、柿の種とピーナッツの比率が6対4なのも、うちの息子4歳が何度注意してもソファからジャンプするのも、全部なんらかの理由があるのだ。ハトが歩くとき、首を振っているのにも。

藤田祐樹『ハトはなぜ首を振って歩くのか』(岩波科学ライブラリー)を読みました。1冊まるごと首振りがテーマ。鳥の歩行を研究している著者、好きな言葉は「首振りと世界平和」。首振り愛が高まりすぎて、ハトが歩くパラパラ漫画まで入っている。

一見、思うままに首を振っているように見えるハト。しかし観察を重ねると「首を振るのは1歩に1回」「片足で立っているあいだは首を振らない」「首を前に出したあと、足を踏み出して前に進むあいだは首の位置が動かない」といった”決まり事”があるのがわかる。

で、実験した人がいる。1975年。イギリスのフリードマンという人は考えた。景色が動くと首を振るんじゃない?それとも足が動くと勝手に首を振るのかな?

フリードマンは実験装置を作った。箱の中にハトを入れる。箱の底はランニングマシーンのようになっている。ハトの見た目からは景色が動かないけど、歩くことができる。果たして、この状況ではハトは首を振らずに歩いたのだ!

逆に、ハトを固定して周りの景色を動かしてみると、ハトは首を振った。歩いていないのに、である。

この現象を人間に置き換えてみると、「走る電車のなかから外の景色を見ている」状態になる。流れる景色を見るとき人間の目はキョロキョロ動く。しかし、ハトの目はキョロキョロできない。鳥類の眼球は頭部に対して大きく、平たい形をしている。代わりに動くのは首。ハトの首の骨は12~13個もあり、柔軟に動けるようになっている。

ハトの目は進行方向に対して左右についている。前方に進むと、ちょうど流れる景色を見るようになる。キョロキョロしたくなるが眼球の都合できないので、自然と首を振ってしまう、というわけなのだ。おおぉ~。

しかし話はこれだけでは終わらない。
首振りが1歩に1回なのはなぜ?
キョロキョロしたくなるのはなぜ?
だいたい同じ背格好のカモが首を振らないのはなぜ?
雀は両足でピョンピョン進むのはなぜ?
恐竜も首を振って歩いたの?

観察と仮説を重ねていくのだけど、随所で著者の言動が面白くて癖になる。コアホウドリがVの字に首を振ると聞けば、実際に自分で動きを真似てみて、「運動力学にも神経生理学的にも合理的なのではないか」と思うのと同時に「その姿を誰にも見られなくてよかった」と安堵していたりする。

序盤ではヒトと鳥の二足歩行について語っているのだけど、「なぜスキップやケンケンで移動しないのか」という疑問を持ちだした挙句、

仲睦まじくスキップをする恋人たちは、果たして疾走感を感じたいからスキップしているのだろうか。(中略)子供たちは遊びに夢中になると疲れるということを知らない。恋する若者たちもまたしかり。そういう活力にあふれる年頃には、きっと疲労など度外視してスキップもケンケンもできるのかもしれない。

と、若さ=スキップケンケンで語りだしてしまう。ところどころクスクス笑っちゃう。

「ハトはなぜ首を振るのか」を大真面目に優しく教えてくれる本。飛ぶのがメインの鳥が、たまに歩くときに見せるキュートさがたまらないだろうなぁ。

興味がないから質問がない

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なにか質問はありますか?と聞かれると、いつもちょっと考えたふりをしてから「特に」と言ってしまう。なにを聞いていいのかわからなくて、インタビューとか取材でも事前にドキドキしながら考える。

というわけで、コミュニケーション関連の本を最近読んでいる。斉藤孝『質問力』を再読しました。内容、すっかり忘れてた。いかん。ユダヤの格言では本を読んでも身にならない人のことを「書物を積んだロバ」っていうらしいですよ。ロバですって。ローバー美々ですって(大股開きニュースでおなじみ)。

『質問力』には、具体的なテクニックが具体的な例と共に解説されている。例に挙げるメンバーが濃い。谷川俊太郎、黒柳徹子、村上龍、河合隼雄、伊丹十三、ダニエル・キイス、ジェームズ・リプトンなどなど。高度すぎて真似できない……と思うけど、最高レベルはこれくらいすごい、という天井を見せてくれている。

で、ひと通り読んで、一番グッと鷲掴みにされたポイントが、実は本編じゃなくて解説。斎藤兆史が解説していて、質問とは教えを乞う行為ではなく、「他人と自分の考えがどこでどのようにずれているのか確認するための作業」と述べたあと。

したがって、質問を発するためには、まずその前提として自分なりの考えがなくてはいけない。質問ができないということは、相手の考えに対置すべき自分の考えがないことを意味する。学習段階の低い児童によく見られる、「何が分からないのかが分からない」状態にあるということだ。(P.232)

疑問を持つのは相手と自分の考えが違うからだし、共感をするのは相手と自分の考えが似ているからだ。相手と自分の間の差分が、質問を生むのだ。

「自分の考え」はそのまま「自分の興味」に置き換えてもいい。相手に興味があって、考えがあれば、「これって?」とか「ですよね」とか、聞いたり沿ったりできる。興味ゼロの相手では「誰?」から始めないといけない。

わー、そうか。興味が無いのか。自分以外の「外側」にもっと興味や好奇心を向けないと質問は出ないのか。テクニックよりもなによりも本質的な部分だった。相手がいるコミュニケーションの話ではなくて、自分の生き方の話になってくるのだった。

雑談もJazzもアドリブで奇跡が生まれる

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齋藤孝『雑談力が上がる話し方―30秒でうちとける会話のルール』を読みました。

なんでもない時にふと交わす雑談。ビジネスだったり、メールだったりとまた違うコミュニケーション能力。本書では、雑談がしゃべれるようになるテクニック満載!という感じではなく、いかに「雑談力」が大切か、という説明にページが割かれています。

雑談それ自体は「意見を伝える」とか「物事をはっきりさせる」という目的じゃなくて、「空気を和ませる」とか「雰囲気をよくする」とか、場を作る役割がある。雑談という言語を使ったコミュニケーションなのに、言葉を伝えるのが目的じゃない。言われてみればそうだなぁ。

テクニックというか、心がけ的なものも紹介されてます。印象に残ってるのは「聞く側」の態度のこと。

雑談はその特性上「なにか伝える」ものじゃないので、山場もなくても、オチがなくても、意味もなくていい。ちゃんとした中身にしないと!と思うと、雑談が苦手になる。別にスベらない話じゃなくてもいいんですよ、とハードルを下げていい。

でも、それには「聞く側」が「これは”雑談”である」と認識していることが必要。「オチは?」とか「結論は?」という態度でいると、雑談は成立しない。ボールを待ってるのにボールが飛んでこない。そもそもボールを投げてない。飛んでこないボールを待つので、おかしなことになる。

この「雑談を聞く態度」で思い出すのは、『笑っていいとも!増刊号』の「放送終了後のお楽しみ」のコーナーのこと。

『笑っていいとも!』は毎回放送終了後にタモリとレギュラー陣が残って、テーマのない雑談をしていた。たまに増刊号の収録でコーナー化するときもあったけど、雑談が盛り上がって変な方向に行ったりするのが楽しかった。中居くんの私服が変→じゃぁ着てきてよ→みんなも私服着て出ようよ、みたいな、突然コーナーっぽく仕上がったりして。

で、何で読んだか忘れちゃったのだけど、この「放送終了後のお楽しみ」について、タモリが雑談なのがいいと言っていて、「雑談はJazzである」って言ってた……たぶん。細かい言い回しは忘れちゃったけど、雑談をJazzに例えていた。

アドリブと、それに応えるアドリブ。フレーズが折り重なって生まれるドライブ感。雑談もJazzも、あらかじめ決められたやり取りじゃないし、誰かが先導するものじゃない。その場で生まれるアドリブであり、そこには奇跡も生まれる。

最近「雑談力」についての本が多く書店に並んでいるけど、雑談の魅力ってこの「どこに行くかわかならい」感じだよなぁ、と改めて思う。なんか変な話しを振られても否定せずに、一旦ノッてみたら、とんでもないところに連れて行かれるかもしれない。行き先のない小旅行。雑談は楽しい。

クソリプにムッとするのは「冗長率が低い」から

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コミュニケーション教育に、過度な期待をしてはならない。その程度のものだ。その程度のものであること重要だ(P.32)

平田オリザ『わかりあえないことから』を読んだ。副題は「コミュニケーション能力とは何か」。

「自分の主張をはっきりと伝える」と「空気を読んで黙ってる」、どちらもコミュニケーション能力とされている。しゃべったらいいのか黙ったらいいのかわからない。ダブルバインドである、というところから始まる。

「コミュニケーション能力」は一般的には「しゃべり」の能力とされているけど、ダンスだって表現だし、黙っているという表現だってある。理科が苦手、みたいな感じで、しゃべりが苦手、という子どもがいたって別にいい。コミュニケーション教育に、過度な期待をしてはならないのである。

でもコミュニケーションはできたほうがいいし、どうやってその力を身につけるの?となる。これが面白い。演劇的なアプローチ、「会話」と「対話」の違い、知らない人に話しかけられないのはなぜか、日本と海外で決定的に異なる点などなど、事例も含めて解説され腑に落ちるし、これは覚えておかないと! と興奮する。

印象に残っているのは「冗長率を操作する」の項。

平田はアンドロイドを使った演劇を行ってる。アンドロイドが人間っぽく振る舞うには「ノイズ」が大事。

人間って、スラスラしゃべらずに、途中に「あぁ」とか「んー」とか「えーと」とか余計なものが挟まる。この余計なものが含まれる割合を「冗長率」と呼ぶ。

ここでクイズ。

家族との会話、会議での発言、プレゼンや会見、初対面の人との雑談。しゃべる場面はいろいろあれど、その中で「冗長率が多い」のはどんな時か?

正解は「対話をするとき」。

会話でもなく、発表でもない。価値観の違う相手と何かをすり合わせるときが一番多くなる。「えー、まぁおっしゃることはよくわかるんですが、その、例えばこんな見方もですね、あるのではと……」みたいな感じになる。徐々に相手の出方をうかがうから。

逆に、気心知れた人との会話は、背景を共有しているので短い(メシ、風呂、寝る)。プレゼンなどの発表の場では、冗長率が少ないほうが論理的に話しているように聞こえる。

確かに、冗長率の含有量を間違えるとおかしなことになるなぁ。

壇上で「え〜その〜」が多い人は聞いてて不安になる。家族に「確かにそうかもしれませんがしかしですね……」など言うと慇懃無礼になる。Twitterで知らない人から「鳴かないカエルもいますよ」と突然リプライが来るとムッとする。

日本の国語教育は「無駄なことは言わない」「論理的に話す」と冗長率を低くする方向で教えるが、話し上手になるために必要な力は「冗長率を操作できる能力」なのではないか、と平田は言う。

誰かに話しかけるとき、自分の冗長率がどうなっているか気になってしまうのだった。