ハトはなぜ首を振って歩くのか

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すべてのモノには理由がある。

潮の満引きがあるのも、太陽と反対側に虹ができるのも、柿の種とピーナッツの比率が6対4なのも、うちの息子4歳が何度注意してもソファからジャンプするのも、全部なんらかの理由があるのだ。ハトが歩くとき、首を振っているのにも。

藤田祐樹『ハトはなぜ首を振って歩くのか』(岩波科学ライブラリー)を読みました。1冊まるごと首振りがテーマ。鳥の歩行を研究している著者、好きな言葉は「首振りと世界平和」。首振り愛が高まりすぎて、ハトが歩くパラパラ漫画まで入っている。

一見、思うままに首を振っているように見えるハト。しかし観察を重ねると「首を振るのは1歩に1回」「片足で立っているあいだは首を振らない」「首を前に出したあと、足を踏み出して前に進むあいだは首の位置が動かない」といった”決まり事”があるのがわかる。

で、実験した人がいる。1975年。イギリスのフリードマンという人は考えた。景色が動くと首を振るんじゃない?それとも足が動くと勝手に首を振るのかな?

フリードマンは実験装置を作った。箱の中にハトを入れる。箱の底はランニングマシーンのようになっている。ハトの見た目からは景色が動かないけど、歩くことができる。果たして、この状況ではハトは首を振らずに歩いたのだ!

逆に、ハトを固定して周りの景色を動かしてみると、ハトは首を振った。歩いていないのに、である。

この現象を人間に置き換えてみると、「走る電車のなかから外の景色を見ている」状態になる。流れる景色を見るとき人間の目はキョロキョロ動く。しかし、ハトの目はキョロキョロできない。鳥類の眼球は頭部に対して大きく、平たい形をしている。代わりに動くのは首。ハトの首の骨は12~13個もあり、柔軟に動けるようになっている。

ハトの目は進行方向に対して左右についている。前方に進むと、ちょうど流れる景色を見るようになる。キョロキョロしたくなるが眼球の都合できないので、自然と首を振ってしまう、というわけなのだ。おおぉ~。

しかし話はこれだけでは終わらない。
首振りが1歩に1回なのはなぜ?
キョロキョロしたくなるのはなぜ?
だいたい同じ背格好のカモが首を振らないのはなぜ?
雀は両足でピョンピョン進むのはなぜ?
恐竜も首を振って歩いたの?

観察と仮説を重ねていくのだけど、随所で著者の言動が面白くて癖になる。コアホウドリがVの字に首を振ると聞けば、実際に自分で動きを真似てみて、「運動力学にも神経生理学的にも合理的なのではないか」と思うのと同時に「その姿を誰にも見られなくてよかった」と安堵していたりする。

序盤ではヒトと鳥の二足歩行について語っているのだけど、「なぜスキップやケンケンで移動しないのか」という疑問を持ちだした挙句、

仲睦まじくスキップをする恋人たちは、果たして疾走感を感じたいからスキップしているのだろうか。(中略)子供たちは遊びに夢中になると疲れるということを知らない。恋する若者たちもまたしかり。そういう活力にあふれる年頃には、きっと疲労など度外視してスキップもケンケンもできるのかもしれない。

と、若さ=スキップケンケンで語りだしてしまう。ところどころクスクス笑っちゃう。

「ハトはなぜ首を振るのか」を大真面目に優しく教えてくれる本。飛ぶのがメインの鳥が、たまに歩くときに見せるキュートさがたまらないだろうなぁ。

興味がないから質問がない

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なにか質問はありますか?と聞かれると、いつもちょっと考えたふりをしてから「特に」と言ってしまう。なにを聞いていいのかわからなくて、インタビューとか取材でも事前にドキドキしながら考える。

というわけで、コミュニケーション関連の本を最近読んでいる。斉藤孝『質問力』を再読しました。内容、すっかり忘れてた。いかん。ユダヤの格言では本を読んでも身にならない人のことを「書物を積んだロバ」っていうらしいですよ。ロバですって。ローバー美々ですって(大股開きニュースでおなじみ)。

『質問力』には、具体的なテクニックが具体的な例と共に解説されている。例に挙げるメンバーが濃い。谷川俊太郎、黒柳徹子、村上龍、河合隼雄、伊丹十三、ダニエル・キイス、ジェームズ・リプトンなどなど。高度すぎて真似できない……と思うけど、最高レベルはこれくらいすごい、という天井を見せてくれている。

で、ひと通り読んで、一番グッと鷲掴みにされたポイントが、実は本編じゃなくて解説。斎藤兆史が解説していて、質問とは教えを乞う行為ではなく、「他人と自分の考えがどこでどのようにずれているのか確認するための作業」と述べたあと。

したがって、質問を発するためには、まずその前提として自分なりの考えがなくてはいけない。質問ができないということは、相手の考えに対置すべき自分の考えがないことを意味する。学習段階の低い児童によく見られる、「何が分からないのかが分からない」状態にあるということだ。(P.232)

疑問を持つのは相手と自分の考えが違うからだし、共感をするのは相手と自分の考えが似ているからだ。相手と自分の間の差分が、質問を生むのだ。

「自分の考え」はそのまま「自分の興味」に置き換えてもいい。相手に興味があって、考えがあれば、「これって?」とか「ですよね」とか、聞いたり沿ったりできる。興味ゼロの相手では「誰?」から始めないといけない。

わー、そうか。興味が無いのか。自分以外の「外側」にもっと興味や好奇心を向けないと質問は出ないのか。テクニックよりもなによりも本質的な部分だった。相手がいるコミュニケーションの話ではなくて、自分の生き方の話になってくるのだった。

信じてるわけじゃない。疑ってないだけ。

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車を運転していると、「こちらの動きを読んだ上で行動している車」に出会うことがある。

例えば、交差点で右折しようとする。減速し、右へハンドルを切って、ゆっくりとアクセルを踏む。すると前方から直進してくる車がいて、こちらが右に曲がりきると同時に後ろをかすめて走り去っていく。ほぼスピードをゆるめずに。

もしも右折の最中に犬が飛び出してきて、僕がキャンッ!とブレーキを踏んで止まったとしたら、直進してくる車は確実にガーン!とぶつかっている。

信じないでほしい、と思う。僕が無事に曲がりきると信じないでほしい。なにが起こるかわからないんだから、そんなところで僕を信頼しないでほしい。しゃっくりが出てハンドル操作を誤るかもしれない。僕にしか見えない少女に驚いてブレーキを踏むかもしれない。そこに女の子が!親方!空から女の子が!

と、考えていて、ふと思った。別に相手は僕を信じているわけではない。

見ず知らずの相手に全幅の信頼をおいて、「大丈夫、あいつはやってくれる。やってくれるさ」と思って直進してくるわけではない。だって知らないもの。誰やねんって話で。

結局、信じる信じないではなく、疑うことを放棄しているんだと思う。起きうる可能性を検討していないのだと思う。想像を諦めているのだと思う。平たく言うと、考えてない。ノープラン。

この「信じられてると思っている」と「考えないで任せている」の不幸な出会いは、ひょっとしたら仕事上でも起きうるかもしれない。

「あいつにでもやらせておけばいいんじゃね」という適当さを見抜けずに、「信じて任された仕事なんだからちゃんとやらなくちゃ……」と気に病んでいる人もいるかもしれない。

「大丈夫大丈夫、完成するから」という丸投げに、「2500億円かかる……どうしよう……」と真っ青な人もいるかもしれない。

ちなみにうちの息子4歳は、「いっしょにレゴでロボットつくろう!」と誘ってきておきながら、パパが作り始めるとどっかに行ってしまいます。信じて任せているのか、適当なのか。まぁ作るんですけど。ロボット。

↓気になってる本。あの競技場、なんであんなことになってんだろ。