雑談もJazzもアドリブで奇跡が生まれる

150630atsudan

齋藤孝『雑談力が上がる話し方―30秒でうちとける会話のルール』を読みました。

なんでもない時にふと交わす雑談。ビジネスだったり、メールだったりとまた違うコミュニケーション能力。本書では、雑談がしゃべれるようになるテクニック満載!という感じではなく、いかに「雑談力」が大切か、という説明にページが割かれています。

雑談それ自体は「意見を伝える」とか「物事をはっきりさせる」という目的じゃなくて、「空気を和ませる」とか「雰囲気をよくする」とか、場を作る役割がある。雑談という言語を使ったコミュニケーションなのに、言葉を伝えるのが目的じゃない。言われてみればそうだなぁ。

テクニックというか、心がけ的なものも紹介されてます。印象に残ってるのは「聞く側」の態度のこと。

雑談はその特性上「なにか伝える」ものじゃないので、山場もなくても、オチがなくても、意味もなくていい。ちゃんとした中身にしないと!と思うと、雑談が苦手になる。別にスベらない話じゃなくてもいいんですよ、とハードルを下げていい。

でも、それには「聞く側」が「これは”雑談”である」と認識していることが必要。「オチは?」とか「結論は?」という態度でいると、雑談は成立しない。ボールを待ってるのにボールが飛んでこない。そもそもボールを投げてない。飛んでこないボールを待つので、おかしなことになる。

この「雑談を聞く態度」で思い出すのは、『笑っていいとも!増刊号』の「放送終了後のお楽しみ」のコーナーのこと。

『笑っていいとも!』は毎回放送終了後にタモリとレギュラー陣が残って、テーマのない雑談をしていた。たまに増刊号の収録でコーナー化するときもあったけど、雑談が盛り上がって変な方向に行ったりするのが楽しかった。中居くんの私服が変→じゃぁ着てきてよ→みんなも私服着て出ようよ、みたいな、突然コーナーっぽく仕上がったりして。

で、何で読んだか忘れちゃったのだけど、この「放送終了後のお楽しみ」について、タモリが雑談なのがいいと言っていて、「雑談はJazzである」って言ってた……たぶん。細かい言い回しは忘れちゃったけど、雑談をJazzに例えていた。

アドリブと、それに応えるアドリブ。フレーズが折り重なって生まれるドライブ感。雑談もJazzも、あらかじめ決められたやり取りじゃないし、誰かが先導するものじゃない。その場で生まれるアドリブであり、そこには奇跡も生まれる。

最近「雑談力」についての本が多く書店に並んでいるけど、雑談の魅力ってこの「どこに行くかわかならい」感じだよなぁ、と改めて思う。なんか変な話しを振られても否定せずに、一旦ノッてみたら、とんでもないところに連れて行かれるかもしれない。行き先のない小旅行。雑談は楽しい。

『海街Diary 怒りのデス・ロード』のあらすじ

映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が気になる。

何が気になるって、「怒りのデス・ロード」である。

原題は”Mad Max: Fury Road”。Furyは激怒という意味なので「怒りの」はいいんだけど、Roadだけで「デス・ロード」。

こういうサブタイトルって誰がつけてるかわからないけど、どうも何かしら付け足してしまう傾向がある。マカレナに「恋の」とつけたりとか。

ただ、「怒りのデス・ロード」は、たぶん何につけても面白いフレーズなのがズルい。『海街diary』『海街diary 怒りのデス・ロード』になる。観たい。観たいので、あらすじを作ってみた。それぞれの公式サイトに載ってるあらすじを混ぜ合わせると、こんな感じになる。

-----

まぶしい光に包まれた夏の朝、石油も、そして水も尽きかけた鎌倉に住む三姉妹のもとに届いた父の訃報。十五年前、父は家族を捨て、その後、母(大竹しのぶ)も再婚して家を去った。父の葬儀で、三姉妹は愛する家族を奪われ、本能だけで生きながらえている腹違いの妹すず(広瀬すず)と出会う。資源を独占し、恐怖と暴力で民衆を支配するジョーの軍団に捕われたすずに、長女の幸(綾瀬はるか)は思わず声をかける。「鎌倉で一緒に暮らさない?」反逆を企てるジョーの右腕・幸と、配下の全身白塗りの次女・佳乃(長澤まさみ)は何かとぶつかり合い、三女の千佳(夏帆)はマイペース。そんな三姉妹の生活に、すずが加わった。季節の食卓を囲み、それぞれの悩みや喜びを分かち合っていく。しかし、祖母の七回忌に音信不通だった母が現れたことで、一見穏やかだった四姉妹は奴隷として捕われた美女たちを引き連れ、自由への逃走を開始する。凄まじい追跡、炸裂するバトル……。絶体絶命のピンチを迎えた時、秘められていた心のトゲが見え始めるー。

-----

観たい。石油も水も尽きかけた古都鎌倉。本能だけで生きながらえてる広瀬すず。クライマックスの大竹しのぶとの白熱するバトルも見どころだ。

あと全身白塗りの長澤まさみも観たい。

『アルプスの少女ハイジ』にトライさんはいない

ぼんやりテレビを見ていたある日、ふとその可能性に思い至った。

まさか、いやそうかもしれない。恐る恐る、しかし少しの確信を持って、子どもたちに言ってみた。

「アルプスの少女ハイジに、ホントはトライさんはいないんだよ」と。

返事は「えー!うそ!」だった。やっぱり。やっぱりだったか。

『アルプスの少女ハイジ』をベースにした「家庭教師のトライ」のCM。元となったハイジの画質そのままに合成されたキャラクター・トライさん。吹き替えもハイジたちと会話しているように絶妙に変えてあって、すっかりハイジの世界に馴染んでいる。

うちの子どもたちは『アルプスの少女ハイジ』本編より先に「家庭教師のトライ」に触れてしまったので、もうすっかり「トライさん」がハイジの登場人物にいると思っているのだ。無理もない。あんなに馴染んでたら無理もないのである。

このあいだスーパーに行ったとき「アルプスの少女ハイジ パンチップス」なるお菓子があった。パッケージを指さして、「ほら、トライさんいないでしょ」と再度教えた。

20150622haiji

「えー、ホントだ」と一旦は納得した娘8歳。しかし、「後ろの家の中にいるんじゃないの?」とまだ諦めていなかった。

いない。いないんだって!ハイジにゃ学校も、試験もなんにもないんだって!(夜は墓場で運動会でもない)

もういっそこの調子で、いろんな名作アニメにトライさんを出してほしい。999に乗り込み、哲郎とメーテルに夏期講習を勧めるトライさん。虎の穴でタイガーマスクに個別学習をするトライさん。少年院で丹下段平の葉書を受け取る矢吹丈に、通信学習も合わせてオススメするトライさん……。

どんなアニメにもトライさんが見切れる。トライさんが共通言語になる。トライさんを介して世界がつながり、一つになる。We are the world. We are the トライさん。

「あなたもサザエさん わたしもサザエさん」みたいになってきた。カツオにこそトライさんがいる気もする。

全国の線路がつながる!駅すぱあとの新しい『全国路線図』がバージョンアップ

new_rosenzu_001

タモリが鉄道に目覚めたきっかけは、幼少期に「このレールをたどれば全国どこでもいける」という事実に衝撃を受けたからだそう。

駅すぱあとの「新しい路線図」、全国路線図がアップデートしました。この路線図、地域ごとの表示をなくして、全国の路線図を1枚につなげたものなんです。

new_rosenzu_002

しかも、そのままつなげるのではなく、ズームイン/ズームアウトで縮尺がかわります。都心をアップにすると、省略されていた地下鉄網がはっきり映しだされます。まさに路線図界のGoogleMapなのです。

new_rosenzu_004

私鉄密集地帯の富山もこのとおり。

new_rosenzu_003

1本のレールが全国どこでもつながってる。その果てしないイメージを路線図で確かめられます。いやぁいいなぁ。ずっと見てられる。たまらんです。

「全国路線図」はベータ版で、今後APIの提供も検討しているそう。気になる方はメールで登録しておくと最新情報が届きます。おすすめ。

「駅すぱあと」のあたらしい路線図

クソリプにムッとするのは「冗長率が低い」から

51vbXsZKHfL._SL500_

コミュニケーション教育に、過度な期待をしてはならない。その程度のものだ。その程度のものであること重要だ(P.32)

平田オリザ『わかりあえないことから』を読んだ。副題は「コミュニケーション能力とは何か」。

「自分の主張をはっきりと伝える」と「空気を読んで黙ってる」、どちらもコミュニケーション能力とされている。しゃべったらいいのか黙ったらいいのかわからない。ダブルバインドである、というところから始まる。

「コミュニケーション能力」は一般的には「しゃべり」の能力とされているけど、ダンスだって表現だし、黙っているという表現だってある。理科が苦手、みたいな感じで、しゃべりが苦手、という子どもがいたって別にいい。コミュニケーション教育に、過度な期待をしてはならないのである。

でもコミュニケーションはできたほうがいいし、どうやってその力を身につけるの?となる。これが面白い。演劇的なアプローチ、「会話」と「対話」の違い、知らない人に話しかけられないのはなぜか、日本と海外で決定的に異なる点などなど、事例も含めて解説され腑に落ちるし、これは覚えておかないと! と興奮する。

印象に残っているのは「冗長率を操作する」の項。

平田はアンドロイドを使った演劇を行ってる。アンドロイドが人間っぽく振る舞うには「ノイズ」が大事。

人間って、スラスラしゃべらずに、途中に「あぁ」とか「んー」とか「えーと」とか余計なものが挟まる。この余計なものが含まれる割合を「冗長率」と呼ぶ。

ここでクイズ。

家族との会話、会議での発言、プレゼンや会見、初対面の人との雑談。しゃべる場面はいろいろあれど、その中で「冗長率が多い」のはどんな時か?

正解は「対話をするとき」。

会話でもなく、発表でもない。価値観の違う相手と何かをすり合わせるときが一番多くなる。「えー、まぁおっしゃることはよくわかるんですが、その、例えばこんな見方もですね、あるのではと……」みたいな感じになる。徐々に相手の出方をうかがうから。

逆に、気心知れた人との会話は、背景を共有しているので短い(メシ、風呂、寝る)。プレゼンなどの発表の場では、冗長率が少ないほうが論理的に話しているように聞こえる。

確かに、冗長率の含有量を間違えるとおかしなことになるなぁ。

壇上で「え〜その〜」が多い人は聞いてて不安になる。家族に「確かにそうかもしれませんがしかしですね……」など言うと慇懃無礼になる。Twitterで知らない人から「鳴かないカエルもいますよ」と突然リプライが来るとムッとする。

日本の国語教育は「無駄なことは言わない」「論理的に話す」と冗長率を低くする方向で教えるが、話し上手になるために必要な力は「冗長率を操作できる能力」なのではないか、と平田は言う。

誰かに話しかけるとき、自分の冗長率がどうなっているか気になってしまうのだった。