備えれば備えるほど憂う

やれ、大きな地震が来るぞ来るぞとささやかれては、「日頃の備えが大切です」と言われる昨今でございます。

「備えあれば憂いなし」とはいうけれど、備えても備えてもいっこうに安心する気がしないのです。逆に、備えれば備えるほど不安に、憂いになっていくことってないですか。ないですか。

大災害はもとより、例えば仕事で偉い人の前で話すことになった、とか。初デートでもいいですよ。準備をしても準備をしてもなんか足りない気がしたり。頭の中でシミュレーションをしてみても、どうやってもバッドエンドになったり。

これ、たぶん、「備え」を始めると、普段考えてもなかったことが分かっちゃうから、なんじゃないかと思う。

電気が止まると水道も止まるの、本部長が出る会議ってそんな資料いるの、初デートでこんなこと言っちゃダメなの、どんどんNGな情報が入ってきちゃう。

どこかで「今回はここまで」を置かないと、備えるたびに憂いが出てくる。備えれば備えるほど憂う。なんだ「備えあれば憂いなし」って。憂いばっかりじゃないか。

なんてことを思ってたんですけどね、ちゃんと「備えあれば憂いなし」を調べてみたんです。どんな意味か。そしたらですね、僕ちょっと勘違いしてました。

【意味】
備えあれば憂いなしとは、普段から準備をしておけば、いざというとき何も心配がないということ。

引用元:備えあれば憂いなし – 故事ことわざ辞典

「憂いがない」のは「いざというとき」。

そうか、備えてる最中に出る憂いというのは、ことわざ的にはノータッチなわけか…。

災害の備えは万全に近づけるのが理想だけど、会議やデートの備えはホドホドにして望んだほうが、憂いの時間が少なく済みそう。本番で憂うかどうかは、やってみなければわからないわけだし。

心配をするだけで、頭の中、ヘトヘトになるものね。ホドホドが一番ですな。

あー、あと、備えあればに似た感じの教えで、「『最悪どうなるか』を考える」ってのがあって、心配でたまらない事も最悪どうなるか考えると実際そんなにヒドいことにならないかもよ、という意味のフレーズなんですが、僕が最悪をシミュレーションすると、風が吹けば桶屋が儲かる式に想像が膨らんで、どんなことでも最終的には僕が死ぬんですが、コレなんとかならないですかね?