『やまだ眼』ネタは消費されても「言葉」は消えない

yamadagan

いま日本国民に知られている「体操」と言えば、「ラジオ体操」は別格として、最近では「あたりまえ体操」になりますか。

これにもうひとつ挙げるとするなら、「アルゴリズム体操」じゃないかと思うんですよ。『ピタゴラスイッチ』の。

その「アルゴリズム体操」をしているお笑いコンビ・いつもここからの山田一成と、『ピタゴラスイッチ』監修の佐藤雅彦のコンビによる一冊がこの『やまだ眼』なのです。

内容は毎日新聞夕刊に2年間連載された同タイトルのコーナーの書籍化。山田一成の言葉に、佐藤雅彦の解説がついている。その「言葉」というのが、例えばこういうの。

エレベーターまで送ってくれた親切な人が、ドアが閉まる瞬間、真顔にもどるのを見た。(P.12)

有名なミュージシャンを「好き」と言うのは、無名なインディーズバンドを「好き」と言うより勇気がいる事なんだと思った。(P.154)

木目がプリントだと別に性能に関係なくても何かガッカリする。(P.109)

「よ~お、パン」という一本締めのあの恥ずかしくて気持ち悪いリズムは、その後すぐ拍手をするからまだ恥ずかしさがまぎれて耐えられる。(P.174)

全然怒ってるわけじゃないのに、帰り際ドアが”バーン!”と閉まってしまった。言い訳するのも変だし、そのまま帰るのも心残りだしで、ベストの対応が思いつかなかった。(P.195)

テレビ的に言えば「あるあるネタ」になるのだと思う。クスクス笑いも止まらない。でも、このトーンで何十も言葉が続くと、目のつけどころに共通点が見えてくる。

この言葉たちは、全部自分自身に返ってきているのだ。感じた違和感を出しているだけじゃなくて、「違和感を感じた自分」をさらしているのだ。

消費される「ネタ」、残り続ける「言葉」

「~と思われたらどうしよう」と思うことってよくある。

さらに「『~と思われたらどうしよう』と思われてたらどうしよう」と不安はグルグルと渦を巻く。「~と思われたらどうしよう」の裏には「~と思われたくない」があって、「~と思われたくない」の裏には「小さなプライド」が構えている。

山田一成の言葉はその裏の裏にある「小さなプライド」まであぶりだす。佐藤雅彦が1つ1つの言葉を掘り下げて解説して、じっくり味わうことで、その深さを感じ取ることができる。

これって今のテレビと全く逆のことにやっている。テレビではネタは簡単に消費される。新しいものを出していかないと、すっかり過去の人になる。テレビに出ないと「消えた」と言われてしまう。

でも、消費された「ネタ」も、「過去の人」になった人も、消えてなくなっているわけじゃない。見えなくなったからってこの世から無くなっているわけじゃない。言葉も人も残り続ける。そこに意志があり意図がある。

『やまだ眼』で照らされた言葉たちを読みながら、この世界にはまだまだ知らない言葉たちがあると、思いを馳せてしまうのだった。