人は他人を嫌いになるのに、他人には嫌われたくない。
なんとも耳が痛いフレーズ。そうなんだよなぁ。不公平だよね。やっぱり自分はココロが汚れているのね…と、いじけてしまう僕。でも、哲学者の中島さんはこう言う。
ひとを嫌うことはごく自然、ひとから嫌われるのもごく自然です。
人を自然と好きになるように、「嫌い」だって自然なもの。自然なものなら「嫌い」を嫌わず受け止めちゃえばいい。きちんと「嫌い」になればいい。
えー…そんなこと言われても…嫌われるのってやっぱりイヤでしょ…中島さんだって、と口答えしてみても、中島さんはビクともしない。まえがきに書いてあるんだけど、中島さん、妻と息子から「ある日を境に激しく嫌われるハメに陥った」のが「嫌い」を考えるキッカケになったそうで…。
キッカケはどうあれ、「嫌い」という感情に徹底的に向き合い解説する本書。
すべての人を好きにはなれない、という話から始まり、「嫌い」がどういう段階を踏むか、「嫌い」の原因は何か(8種類もある)、豊富な例を出しながら「嫌い」を解き明かしていく。
「嫌われ者」だから「嫌い」がみえてくる
そうなのだ。「豊富な例」が出せるほど、中島さんは人が嫌いで、さらに人に嫌われているのだった。その辺は自虐ネタとして書かれてて笑いの域まで達している。もう嫌われるのが怖くないので、ハッキリものを言いすぎて嫌われるらしい。程度の問題だけども。
そんな「嫌われ者」が「嫌う/嫌われるのは良くない」という枠を外して、ものごとを見てみる。そうするといろんな発見がある。
例えば「どうせオレなんて嫌われものだ」というセリフ。
不良がすねて言うセリフだけども、この言葉、裏を返せば「みんなから嫌われるのはダメなやつだ」という考えから出てきている。ダメなやつ=オレという自己嫌悪であり、底には「嫌われたくない」がある。そんなこと考えてもみなかった。
そこで中島さんは「嫌われたっていいじゃない」と持ちかける。好きな人がいる。嫌いな人がいる。それで結構。後ろめたいなんて思わないほうが、ストレスなく生きられるじゃないと。
ここまで言われても、いやでもな…と、僕もためらうんですが、最後のほうで中島さんは魅力的なカードを切る。
それは「自己嫌悪」について。
「自己嫌悪」と「期待」
人を嫌ってはならない、人を傷つけてはならない、と僕らは教わってきた。
でも、やっぱり僕らは人を嫌ってしまい、意図せずとも人を傷つけてしまう。そのたび、そんなことをしてしまった自分を責めてしまう。
そして、人との関わりを極力避けたり、遠回しなコミュニケーションを取ろうとする。”やさしさ”を持ち寄る。でも、やっぱりうまくいかない。自己嫌悪は消えない。
「人を嫌ってはならない、人を傷つけてはならない」はみんなが知っている。みんなそれを期待している。その期待を裏切ってしまう。裏切った自分が嫌いになる。
結局、自己嫌悪とは他人から嫌われることを恐れるあまり、自らに「嫌い」を向ける行為になる。
この沼から抜け出す答えとして、中島さんは「期待」というキーワードに着目する。
自分が他人に、教師が生徒に、部下が上司に、親が子供に、人間関係にはなんらかの「期待」が働く。そして「期待」に応えてくれない相手が嫌いになり、「期待」を裏切った自分が嫌いになる。
生理的に嫌い、というムチャクチャな嫌いもあるけど、「期待」には多くの嫌いの根っこがある。
「期待」について冷静になることが、嫌いのストレスを減らすことになるのか、と目からウロコが落ちた。
さいごに
中島さんまで「嫌い」について達観できないけど、「嫌い」という感情に苦しんでいる「いいひと」ほどこの本はひとつの処方箋になると思う。
最後に1つ、僕に「あぁっ」と響いた、自己嫌悪について引用されている言葉を。
「あまりにも急いで恩返しをしたがすのは、一種の恩知らずである」(ラ・ロシュフコー)
自己嫌悪が強い人は、他人の世話や贈り物が落ち着かない。嫌われたくないから、どうしようかうろたえる。
どうか落ち着いて。「期待」を意識しすぎないように。
↑自己嫌悪や裏切りについて、より楽になる良書です(僕の感想文)
↑自分を守ろうとする「予防としてのやさしさ」がわかります。(僕の感想文)