槙田雄司(マキタスポーツ)『一億総ツッコミ時代 』(→僕の感想文)を読んでから、「ツッコミ」について考えている。
『一億総ツッコミ時代』は、みんなが「ツッコミ」になって世の中の小さな間違いまで指摘することを嘆く。そんな息苦しい世の中より、「ボケ」と「ベタ」で明るく生きよう!という内容だった。もう目からウロコが落ちまくりで、目がァ!目がァ!というくらい影響を受けている。ボケてばかりいる。
でも、ボケてばかりいると思うのだ。「幸せなツッコミもあるはずでは?」と。
『一億総ツッコミ時代』では「ツッコミは本来、重い剣である」として、ツッコミを軽く扱うことに警鐘をカランカランと打ち鳴らしていた。確かにその通りで、ツッコミは使いかたを謝ると、指摘になり野暮になり、ひどい時には攻撃になる。
それでも、ツッコミによってボケがより引き立つ、ひいては、ツッコミがいないとボケが成り立たない場面がある。重い剣を振って切り開きたい地平がある。この武器をどのように使えば幸せになるのだろう。
ツッコミのあるべき姿を求め、まずは『一億総ツッコミ時代』でも言及があった、『つっこみ力』を読んでみた。
珍しい名前。Amazonの著者略歴を見てみると
マッツァリーノ,パオロ
日本文化に造詣の深い、自称イタリア生まれの30代。現在は千葉県民
完全にツッコミ待ちだった。
さて、本書は大きく分けて2部からなる。前半はタイトルの「つっこみ力」について。後半は実践編で、統計をつっこんで転がしてデータの矛盾をつく「統計漫談」。
「統計漫談」がパオロさんの本職らしいのだけど、やっぱり気になるのは前半部分。パオロさん曰く「つっこみ力」とは3本の柱からできている。
「愛と勇気とお笑い」
その3本柱とは「愛と勇気とお笑い」
「勇気」は統計漫談が本職のパオロさんらしく、偉い人が作ったモノやデータだとしても、勇気をもってつっこもうという姿勢。
その勇気を「お笑い」で包んでしまえばカドも立たない。正論をそのままぶつけるより、おもしろい話にしたほうが人の心に響く。
そして一番印象に残ったのは「愛」の部分。
「愛とは、わかりやすさである」とパオロさんは言う。
ある専門分野について自分がとても詳しいとする。それを壇上で発表するとなれば、専門用語を使って話すだろう。でももし、なんにも予備知識がない恋人に「普段なにやってるの?」と聞かれたら、なるべくわかりやすく、例えを使うなりして、がんばって噛み砕いて伝えるだろう。
わかりやすく伝える、とは、相手に愛をもって接することなのだ。
せっかくのツッコミでも、わかりにくくては意味がない。「愛=わかりやすさ」が必要なのだとパオロさんは言う。愛と勇気とお笑いで権威に向かっていこうと。
でも僕は、その「愛」をもう少し分解したい。
「そのツッコミを聞かせたい相手は誰だろう」と。
幸せなツッコミは「愛」を2つ持つ
本来ツッコミとは、ボケた相手に向けられるもの。
でもツッコミを聞かせる相手はボケではなく、観客だ。ツッコミはボケにも、観客にも、「愛」を持つ必要がある。
「幸せなツッコミ」のカギはここにあるような気がする。
周りに聞かせる「愛」もなく、ボケだけに向かってるツッコミはツッコミではない。ただの指摘であり、野暮な攻撃になりうる。
反対に、観客にだけ「愛」を振りまき、ボケをのけ者にするのも感じ悪い。遠くから指をさして笑っているみたいになる。
ボケにも、観客にも、それぞれ「愛」を持つ。「幸せなツッコミ」の1つの条件ではないだろうか。
まだまだ旅は続く
「幸せなツッコミ」についてはまだまだ思うところはある。
「愛」という心得が必要、では具体的に、どうツッコんだらいいだろう?
ボケも観客も、みんな笑顔になるツッコミの姿はどんなものだろうか?
「幸せなツッコミ」という天竺に向け、まだまだ旅は続く。