実家には僕の小さい頃の写真がない

正確には、あった、だけど。

東日本大震災による津波の被害を受けた石巻の実家は、水没した一階に家族のアルバムが保管されいた。泥とヘドロまみれになった家族のアルバムは、他の瓦礫とともに処分された。写真を再生してくれるボランティアの存在を両親が知っていたかはわからないけど、無力感や脱力感から処分したのかもしれないし、膨大な瓦礫を早く目の前から消したかったのかもしれない。

アルバムに残っていた家族写真たち。フィルムカメラの時代だから、今みたいに思いつきでパシャパシャ撮ったものではなく、ここぞという場面で、カメラを前におすましして、記録として残したものが多かったはずだと思う。

撮られた側の小さな小さな僕は、撮られたことを覚えていない。撮った側の両親は、僕を含んだ光景も含めて見ている。言ってみればその写真は、両親の視点なのだ。ある程度、記憶にも残っているだろう。

もし撮られた側の僕が汚れたアルバムを前にしたら、なんとしても残したい。その視点は、その記憶は、どうしても手に入らないから。

今はデジカメで、撮る枚数はフィルムほど制限はない。僕も親バカの端くれとして、我が子の写真を毎日パシャパシャ撮ってる。クラウドとかにバックアップもしてる。

でも「想定外」の事態だってある。

その時が来ないことを願うばかりだけど、いまはシャッターを切って安心せずに、目の前の光景、声も光も風も匂いも、すべて体で感じておきたいと思う。

記憶を少しでも語り継げるように。
 

ちなみに。

僕の小さい頃の写真、実は僕の家に何枚かあった。数年前、結婚式で流すスライドを自作した時に、両親から何枚か送ってもらって、それをスキャンしてた。被災後、全部印刷して、こちらから逆に実家に送った。

その中には、庭に出したビニールプールで、全裸ではしゃぐ僕の姿もある。

そんなのばかり残ってしまっている。
 

3件のコメント

コメントは停止中です。