にせオシム

Twitterで【にせオシム】語録で遊びすぎてしまいました。

いかにもオシムが言いそうな言葉を考える【にせオシム】(まとめはこちら→#niseosim)だいぶ量産してしまったので、こちらにも置いておきます。

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落としたのは金の斧だ、と言うくらいの攻めがほしいところだ。
 

(ハーフタイム中に)お湯とありったけのタオルを!
 

止まない雨はない。明けない夜はない。そして、終わらない二次会もないのです
 

今の日本の理想と現実は、川崎と新川崎くらい離れていると言わざるを得ない。
 

カラオケで一曲目にサライを歌いますか?それと同じ事です。
 

熱くなることは時に愚かなことです。シューゾー・マツオカに伝えてください。
 

(難しい表情のまま、挑発的に足を組み替える)
 

サンマ・アカシヤが出すパスはパスとは言わない。ピッチに不安な空気を持ちこんで、どれほどの点が取れますか?
 

うお座は11位です。
 

あなたが使っている最寄り駅が、本当に最寄りだと思っているのですか?
 

パラグアイとウルグアイの戦力は大いに異なります。Googleとgooは同じものでしょうか?
 

(椅子から立ち上がり、コマネチ。首をひねりながら着席)
 

4年…決して短くはない歳月です。SPEEDはデビューから解散まで3年8ヶ月でした。4年間の重みを胸に刻むべきです。そして、代表メンバーは SPEEDのように再結成などしないことも。
 

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ちなみにサッカーにもオシムにも全然詳しくありません。勘で書いています。はたして面白くなっているのだろうか…。
 

 

「わたし」という名の「牢獄」 高橋源一郎『13日間で「名文」を書けるようになる方法』

著者本人が講義を行っている、明治学院大学国際学部「言語表現法」。13日間にわたる講義書き起こし(ただし1日だけ休講あり)

どうしたら「自分の文章」を書けるようになるのか?生徒たちの熱い気持ちにこたえて、タカハシ先生が画期的な授業をおこなった。「感想文」は5点でかまわない。「自己紹介」は自分を紹介しないほうがずっと面白い。最高の「ラブレター」の書き方とは?「日本国憲法前文」とカフカの『変身』をいっしょに読むと何が見えてくるのか……。生徒たちの実例文も満載。読んでためになる、思わず参加したくなる楽しい文章教室!

「文章教室」のふれこみなんだけど、文章の書き方はいっさい教えないし、生徒が書いた文章もいっさい添削をしない。

国語的に、文学的にいい文章が「名文」とは限らない。ここでは生徒たちに出す課題を踏まえて、文章を巡る様々な考察が語られる。「書く」ことと「読む」こと、文章を読まれるということ、「ことば」が持つ力と使い方…。まさに「書く」ことの教科書であり、「名文」を巡る小説のようにも読める。

「ことば」とは、「わたし」という名の「牢獄」から放たれた一羽の鳩であると著者は言う。「ことば」を足に括りつけ、囚人に届かせることができる鳩であると。書くことは「わたし」と解き放つ。と、同時に、書いたものを読んだ「わたし」はまた「わたし」の中に入る。書くことと読むことは、永遠に繰り返されるのだ。

あと、あとがきで、生徒の文章を添削しない理由が改めて書かれていて、「教えれば教えるほど文書は下手になる」と語られる。「10年以上前に小学5年生に文章を教えてことがあるが、教える必要なんてなくて「名文」のオンパレードだった。しかし、中学に進学した彼らの文章は病人みたいになっていた」というエピソードも語られる。

これで思い出したのが、以前感想文を書いた『きいてね!おてて絵本』(※過去エントリ:お腹がよじれる!子供たちの創作おはなし集 サトシン監修『きいてね!おてて絵本』 | イノミス。子供たちが繰り出す文章は確かに「名文」揃いだった。

「わたし」を解き放ち、自由になること。それが「名文」に近づくひとつの道なんだな、と思う。
 

富士サファリパークをカイジっぽく

以前、『オラ東京さいくだ』の歌詞を標準語に直すと、なんかすごく悲しくなる というのをやったのですが、似たようなのをちょっと軽めのもので。

なんでも「!」と「…」(3点リーダ)を多用するとカイジっぽくなるんじゃないかなぁ、と思っていろいろ試していました。

それではお聞きください。「富士サファリパーク」

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ホントに、ホントに、ホントに…ホントにライオンだ………!!

近すぎちゃって、どうしよう……。

……カワイくって……どうしよう……!!!

富士サファリパーク…!

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賭けに負けるとライオンが檻から放たれるんだけど可愛くってどうしよう、という感じに。
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サムライブルーの憂鬱

マリッジブルー「私、結婚していいのかしら…」

マタニティブルー「私、子供を産んでいいのかしら…」

サムライブルー「私、刀なんて持っていいのかしら…」

オーシャンブルー「私、海なんか入っていいのかしら…」

ディープブルー「ちょっと深いんじゃないかしら…」

ヒステリックブルー「春がくるたびあなたに会えるんじゃないかしら…」

限りなく透明に近いブルー「よく見えないけどブルーなのかしら…」

((((;゜Д゜)))ガクガクブルブル「このネタここで終わっていいのかしら…」

人情であぶり出す真相 東野圭吾『新参者』

作中で刑事・加賀恭一郎がこう言っている。

「捜査もしていますよ、もちろん。でも、刑事の仕事はそれだけじゃない。事件によって心が傷つけられた人がいるのなら、その人だって被害者だ。そういう被害者を救う手だてを探しだすのも、刑事の役目です」
―第六章 「翻訳家の友」 P.220―

日本橋の片隅で発見された四十代女性の絞殺死体。着任したばかりの刑事・加賀恭一郎は、未知の土地を歩き回る。

9編からなる連作短編集で、短編ごとに煎餅屋、料亭、瀬戸物屋など視点人物が入れ替わるのだけど、肝心な殺人事件の方はなかなか解決に向かわない。それぞれの登場人物たちの身に起きた小さな謎を、加賀がその洞察力で解き明かしてまわっているのだ。いわゆる「日常の謎」をシリーズキャラクターの加賀恭一郎にやらせているのである。これ、今までなかったんじゃないかなぁ。

保険の外交マンの行動が変だったとか、犬の散歩コースに矛盾があったりとか、各短編に出てくる謎は小さなもの。しかしその謎が解かれるたびに親子・夫婦・嫁姑などのもつれた糸が解けていき、わだかまりが溶けていく。これらは結局殺人事件には関係ないのだけど、「事件と関係ない」ことがわかることによって、逆にどんどん外堀が埋まっていく。真相に向けてじわじわと輪が小さくなっていく。

また、被害者の女性は「最近日本橋に越してきた」「熟年離婚してから二年経過」という設定なので、日本橋には親しい人がおらず最近の様子がわからない。お店で交わした会話などから、徐々に被害者の人柄も明らかになっていく。じわじわと光が当たって鮮明になっていく。

手がかりを次々に得て真相に近づくミステリが足し算ならば、『新参者』はどんどん関係ないこと明らかにして最後に真相を残す引き算のミステリとも言えるのかな。引かれていく様子は心に残る人情話になっていて、被害者の人となりは逆にどんどん盛られていく。

一読して、派手なサプライズとか感じず、引き算の構成ゆえ犯人も最後の最後まで全然特定できないし、もぅ…と思っていのだけど、読み終わってからしみじみ考えているとなんかどんどん評価があがっています。なんだろこれ。よくこんなもの作れるよなぁと、まさに日本橋で民芸品を手にとったような感慨が残るのだった。