家宅を捜索する

昔、所ジョージが「海水浴は全身に海水を浴びる。日光浴は全身に日光を浴びる。ということは森林浴は全身に森林を浴びる。それは痛い」と言っていた。確かにそうだと思う。

これと似た話になってしまうのだけど。

遭難者捜索は遭難者を探す。家出人捜索は家出人を探す。ということは、家宅捜索は家宅を探すことになってしまうんじゃないか。いなくなった家を探す。それが本当の家宅捜索。

仕事から帰ってみると、家がない。今朝までは確かにあった。玄関に鍵もかけた。しかしいま、目の前からは家が消えている。

家宅捜索の令状が出るのを待って、地元消防団の協力による大規模な捜索が始まる。最寄り駅を中心に徐々に範囲を広げていく。空からはヘリも家宅の捜索にあたっているが、マスコミのヘリも入り乱れどれが捜索用のヘリか地上からはよく見えない。やがて日が暮れ、今日の捜索が打ち切られる。冬の日は短い。

五日後、存在は絶望的との判断が捜索本部でくだされる。数日でも捜索の延長を、と食い下がろうとするが、疲弊した顔の捜索隊を見て現実を受け止める。

家宅の思い出を振り切るため、実家に帰ることに決める。新幹線からの車窓を眺めながら、あの家宅の面影を探す。自分の中で、家宅の面影がぼんやりしていることに気づき、もっと家宅の姿を焼き付けておくんだったと後悔する。なんだか車窓までぼやけて見えると思ったら、いつのまにか涙が流れていた。

そんな家宅捜索。